PAGE
[5]
木下椿


 萩原サマと昨日食べた夕飯を思い出しながら、のんびりと登校した朝。

「おはよー椿。早くしないと遅れるよー」
「あ、おはよー」

 校舎の4階からそう叫ばれ、振り返した手。
 決して悠長にはしていられない、ギリギリの時間帯。教室に駆け込む生徒で靴箱も混んでいるのではと一瞬思ったりもしたけれど、何故か全く混んでいない。

「おっ、ラッキー」

 それに1つ大きなあくびをして、何時もの自分の靴箱に近寄って上履きを取ろうと伸ばした腕。それを強く掴まれた。

「…………」

 こんな状況が意味不明すぎて混乱する頭をなんとか押さえ、自分の腕を掴む人の顔を恐る恐る仰ぎ見た時、クラリと回る目。

「テメェが木下椿か」

 ああ、どうしてアンタがここに。

「チッ、湿気た面だな……」

 驚きと軽いパニックでフリーズを続けるこちらに盛大な舌打ちをしたその男は、どこからどう見ても悪い子代表、悪魔の化身神谷リョウ。

「まあいい、テメェに命令がある……返事は『はい』だ」

 学校に入学して以来初めて会話をすると言うのに、選択肢が全く与えられないその台詞に頭痛を覚えた。
 遅刻しそうになりながら駆け込んできた生徒が、神谷リョウを見て固まり、下駄箱には近寄ろうともせず端で静かに靴を脱いで階段を上っていく気配を感じる。

「木下椿」

 どうしてアタシの名前を知ってんですか。そして一体何を言うつもりなんですか。

 身を固くしながら全身で警戒と緊張を感じていれば、目の前から聞こえた訳のわからない、全くもって意味不明な台詞に、言葉が出なくなった。

「俺と付き合え……あの糞野郎から持ち掛けられた『ゲーム』だ」

 だけどそんなアタシを見下すように告げられた次の台詞に、ようやく現実に意識が追い付く。

「ゲーム……」

 嘘でしょ、マジですか。
 えっ、そもそもスタートの合図も無くこんな唐突に始まる感じなの?
 っていうか、本当にこんな事をするとか有り得なさ過ぎる……。
 あまりの事態に内心そんな事を考えながら現実から逸らしていた目を、この掠れた低い声が再び足下から絡み付き、縛り付けていく。

「1ヶ月以内にテメェを落とす……手段は問わねえ、だそうだ」


 昨日言われたばかりだけど、あまりに現実味がなくてうっかりしてたわ。
 それにしても改めて考えなくてもなんてマニアックで無意味なゲームなんだ。一体これで誰が得をする。

「この意味が分かるか……?」

 いや、もう本当に意味不明だ。ああ神様萩原サマ、助けてください。
 見えもしない神様よりも見える安心の親友を咄嗟に心で呼んだ刹那、 高圧的で鋭すぎる眼光が冷や汗を伝わせ、恐怖と一緒に落ちていく。


「俺に殴り倒されたくなけりゃあ、大人しく従え」

 この悪魔は厳つい上に葛城と同じ位整った顔をしてるせいか余計に怖い。

「どうせこの場だけだ。テメェみたいな地味でふざけた女と付き合おうなんざ天地がひっくり返ら無え限り有り得ねえ」

 それにしてもこの言いぐさはあまりに酷くないだろうか。

「おい、返事の1つも言えねえのか……屑」

 かったるそうに腰辺りに蹴りを入れられて、靴箱にぶつかった体にしかめた顔。

「……っ」
「さっさと言え」

 どうやら自分は、女としても人間としても扱われて居ないらしい。

「…………」

 只の『道具』。ゲームとしての『駒』。

「んだテメェ……一丁前に睨みやがって」

 どうせ目付きの悪い自分の事だ、睨んだと捉えられても別段不思議はない。
 だけどいくらなんでも、急に人の髪をつかんで壁に叩き付ける事は無いでしょうよ。

「……っ!」

 日頃では感じないような鈍いのに鋭い痛みに、回る視界。
 アタシ一応女だよ? 大した顔でもないけどこれ以上潰れちゃったらどうすんの。
 そんなことを口に出す事も出来ないほど眩む目とは裏腹に、耳は面白い程冴え渡っていた。

「気に入らねえ……」

 アタシだって気に入らねえわ。
 いきなりこんな理不尽なゲーム突き付けられて、蹴られて。これに1ヶ月も耐えろなんて言われているのに。

「……チッ。これ以上殴られたくねえなら、さっさと葛城の所まで行って俺と付き合うなりなんなり言って来い……」

 追い打ちと言わんばかりに更に壁に叩き付けられて、歪になる顔と精神。


 なんでアタシが。こんな目に遭わなきゃいけないんだ。

 そんな怒りが沸いてきた刹那、されるがままだった身体を思い切り動かして、悪魔の筋肉質な腕を両手で振り払った。

「……だ」
「……あ?」

 ふざけんなって話ですよ。いくら平穏主義で凡人なアタシでも、我慢できる範囲は決まってんだ。

「イヤだ」

 この男に興味無しの女の子好きなアタシを、暴力使ってでも1ヶ月以内に落とすゲーム?

 そんなの絶対遂行させてたまるか。

「アタシは、葛城にもアンタにも……何されたって絶対に付き合わない」

 今分かった。
 このゲームに勝者も敗者も出してなんかやらない。それが自分にとっての『勝ち』だ


「……テメェ」

 みるみる内に不機嫌な顔に変わっていった悪魔の化身神谷リョウが腕を振り上げたかと思えば、次の瞬間にはアタシの頬に熱い程の痛みが襲う。

 脳が揺れていると意識で思う間もなく、ふらついた身体をなんとか気合いで支えた直後。途切れかけている意識の中、ぼやけた視界に映る神谷の頬に盛大な平手打ちを食らわせてやった。

「……はは」

 呆然と突っ立っちゃって……おかしいの。
 ざまあみろ。アタシみたいな低レベルな女に平手打ちされる気分はどうだ。

 そんな自虐的な事を思って薄く笑ったまま、黒に染められていく自分の視界。

「…………」

 冷たい廊下に強く身体をぶつける感覚だけが最後に残った。




[←前|次→]
[←戻る]