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[右を向けば左の法則]
前河敦






 研究室の扉が開く音が聞こえて、視線を向けた。

「おう、お前またその格好のまんま出てたのかよ。だらしねえな。ちゃんと白衣もマスクも替えてんだろうな」
「うるっさいねえ……替えてるっつーの。それよりもう帰るから、早く片付けてちょーだい」

 ちょうど今片付けてる真っ最中だよ、見えねえのか。そう言いかけて、口をつぐむ。
 ここ最近根を詰めすぎた。いくら集中力の塊と自分で豪語しているコイツでも、体がついてきていないのは顔色を見れば判断がつく。

「んで、書類は?」
「ま、オッケーかな」
「ほう、なら最近入ってきた事務局のヤツが使えるって噂……マジだったのか。よかったな」

 何気なく呟きながら右手を動かしている途中、疲れているにも関わらず何故か機嫌がよさそうな横顔が視界に映る。

「確かに便利だけど、あーんまり苛めてあげないでよ。いっつもこの時間までひとりで残って仕事してんだから」
「なんだあ? お前が他人を庇うなんて珍しいな」
「まあね。彼、俺の友達だから」

 不意に聞こえてきた台詞があまりに不可解で、一瞬無になった頭が片付けを続けていた手をピタリと止める。

「……テメェに友達ぃ? 急になに言ってんだ」
「いやあ、正確にはまだ友達候補かな。でもいいねえ。あんなに話してて楽しい人間初めて会った」
「研究が唯一の友達で親友じゃなかったのか?」

 今まで人付き合いのひとつもしないで、ひたすら研究に没頭してきた奴が発した言葉の違和感の塊に、淡々と突っ込まずにはいられない。

「喋る相手を間違えてたよ。お前らみたいな同業者より、なーんの関係もない事務の職員とお喋りする方がよっぽど楽しかったわ」

昔から変人で有名な男だ。おまけに感情の起伏や何を考えているのかも掴みにくい飄々とした態度。
 コイツの性格を踏まえるに、きっと友達候補とは言っていても向こうには微塵もそんな素振りは見せていないだろう。

「へえ。研究馬鹿のお前が、一般人となにをそんなに楽しく喋るんだ?」
「んー? 俺のコトとか」
「……はあ? ナルシストかよ」
「違う違う。ちょっと聞いてよ前河、あの事務の子、俺のこと昨日まで存在すら知らなかったらしくて。まあそれは別にどうでもいいんだけど、俺に向かって『羽賀郡司さんってどんな人なんですか?』だって! もう、おっかしくってさ!」

 そう言って目尻に皺を寄せてまで笑う顔は本当に楽しそうで、無邪気で。
 たしかにいくら悪気はなかったとはいえ、うちの研究所で働いているにしてはあまりに失礼極まりない可笑しな状況。笑ってしまうのも頷ける。
 だがそれよりも、普段あまり表情を変えない羽賀が研究のこと以外でこんなに人間らしい顔をしたのは久しぶりに見た気がして、内容よりも表情の方に意識が傾いてしまった。

「……へえ。で、お前はなんて答えたんだ? 『はい、俺が羽賀郡司本人です』って言ったのか」

 こんな柔らかな空気を壊してしまわないように、茶化しながら全ての片付けを終えて、最後に研究室の電気を消す。
 暗くなった部屋の扉をきっちりと施錠している後ろで、また口を開いた男が笑った。

「いや、そんなことしたら会話が終わっちゃうじゃない。だから引き伸ばす為に、俺だってバレそうになった時咄嗟に『自分は前河敦です』って嘘ついちゃった」
「……はあぁ? なに勝手に人の名前使ってんだ。金寄越せ」
「ちょっ、そんなことどうでもいいから。それよりもさ、俺が事務局でなんて言われてるか知ってる? もうさ、変な噂のオンパレードよ。もう思い出しただけでも笑いすぎて涙出てきちゃいそう」

 ヒィヒィと全くらしくもない笑い方をしながら背を丸めて腹を押さえる姿を横目に、白衣を脱いで鞄に突っ込めば、ようやく同じようにゆるゆると白衣を脱ぎ始めた羽賀がまた思い出したようにひとりで吹き出している。

「他人の噂の的かよ。ったく、羨ましいぜ。んで、どんな変な話だ? 本当に笑えるんだろうな」
「あったり前よ。なんせね、なんだっけ。……ああ、そうそう、ノーベル賞に最も近い研究者と言われている若き天才。夜にしか姿を現さなくて、ルックスもそりゃあメチャクチャイケてるらしいよ」
「ぶふっ、いざ言葉にするとヒデェな」

 聞いているぶんにはコイツ自身が言うほど的外れでもない噂だが、そのびっしりと並べられたおべっかに聞こえなくもない台詞の嵐に、思わずこっちまで吹き出してしまう。

「そんで極めつけは『神の申し子』だよ!? 神の申し子って! 俺をなんだと思ってんのよ!」
「なんじゃそら。お前が神の申し子なら世界は壊滅の一途を辿るぜ」
「失礼な奴だね。ま、違いないけど。ぷははっ!」

 一瞬廊下の側へ顔を向けている間に、実験用から普通のマスクへとその口元を覆う布を変えた男が鞄を担いだのを見て鍵束を揺らした。

 まあ、冷静に考えてみれば普段ずっと一緒に居るからこそ当たり前の存在だが、コイツの素顔なんて俺でも見たことがないのだから、羽賀が誰だか分からないというのは事務の職員なら当然かもしれない。
 マスクをつけている奴なんてここには吐き捨てるほど居る。ただ、四六時中、プライベートでも肌身離さずつけているのが羽賀の特徴。

「お前なんでずっとマスクつけてんだよ」
「いいでしょーが別に。これが俺のスタイルなのよ」
「ふーん」

 最初に尋ねた時は喉が弱いと言っていたが、とても信じられない。
 室内作業がほとんどのこの仕事柄にも関わらず、病弱とは無縁そうな引き締まった体だ。休みの日は運動かなにかをしているに違いない。喉が弱ければスポーツなんて出来ないだろう。
 そんなことにばかり思考を巡らせ過ぎて、本質を見失いかけていた頭を強く振ってから研究室の施錠を済ませた。

「……ま、どうでもいいがお前、いつまで俺の名前を使って、その友達候補を騙し続けるつもりだ?」

 差し込む月明かりに照らされる横顔は相変わらず目元しか見えず、鬱陶しい前髪が掛かっている。

「……そこなのよねえ。うっかり本当のこと言うタイミングを逃しちゃいそうな気がしないでもない」
「いつまでも騙し通せるようなモンじゃないぜ。他人ならまだしも、ソイツは事務の職員なんだろ?」

 羽賀は嘘をつくのが天才的に上手いが、決して馬鹿じゃない。こんな判断だってとっくの昔に出来ている筈だ。

「……ま、そうなんだけどさ。俺が羽賀だって分かったら、もう今みたいに話してくれなくなると思うとなんだか寂しくてねえ」
「らしくねえな」
「いや、素晴らしい噂が流れてくれるのは結構だけど、実際の俺ってコレな訳じゃない?」
「お前世間体なんて気にするタイプだったのか」

 珍しくどうにもこうにも歯切れの悪い返答を鼻で笑いながら鍵を返して、裏口から外へと抜ける。
 隣の男が気にしていた事務局の電気は、さすがにもう全て消えていた。

「世間体なんて気にならないよ。ただ、あの人根っからの真面目で礼儀正しいのを重んじるっぽいからさあ……どーもねえ……」

 自分も年に何度かは訪れるあの場所を思い出してはみたが、最近は行っていない。やけに書類を片付けてくれるやつが来たと聞いたのは今年に入ってから。となるとまだソイツは勤務を始めてから1ヶ月と少ししか経ってないって訳か。

「そんな真逆のタイプと話してるお前が想像つかねえよ」
「いや、確かに真面目はガッチガチの真面目なんだけどさ。だけど素直で明るくて真っ直ぐで、性格がひねくれちゃってる俺はあの人を見てて気持ちいいのよ。求める利害もお互い全然別の世界にあるから、気を使って腹を探る必要もないし楽だわ」

 昔から天才的な発想で効率的な作業をこなす異常なまでに回転の早い頭や、切れない集中力。この世界で知らない者は居ないと言っていい程にまで注目され続ける背中。更にはプレッシャーなんてどこ吹く風とばかりに成果まで着々と出しては、その若さと釣り合わない地位に早くも堂々と居座る奇人。

 おまけに素顔もプライベートも謎に包まれたまま。
 本人には言わないが、事務局だけじゃなく同じ研究者の間でも噂の的だ。

 ならば少しくらい、研究所の中にもコイツの心が休める場所があったって悪くない。

「……そりゃよかったな。まあ、この中で適当に仲良くして話すだけの関係で済ますってんなら、別に前河って名乗らせてやってもいいぜ」

 むしろこんなことで更に良い研究が出来るならこっちだって大助かりだ。

「けど、いつかはバレるだろうなあ……」
「そりゃあな。テメェの論文がアプセクトされたら終わりだろ。だがそれ以外の理由じゃバレる要素がなくなった」
「お前の後方援護なんて役に立つかどうか……」
「うるせえな。ないよりマシだろうが。俺が話を合わせてりゃあなんとかなるだろ。なんせテメェの顔が全部映った写真は、この世の中にまだ1枚も出回ってないからな。誰が羽賀郡司かなんて事務局の奴には分かりゃしねえよ」

 駐車場までゆっくりと足を進めながら、空を見上げる。

「その代わり、重複するがあくまでも中で話す関係だけにしかこの嘘は通用しねえぞ。個人的な付き合いを始めるつもりならさっさとバラしちまえ」
「……だーね」

 暗がりの中にポツンと佇む自分の車のロックを開けて、片手を上げた。

「じゃ、おつかれさん」

 あの変人に友達候補と言わせる奴がどんな人間なのか気にならない訳じゃないが、アイツが自分の名前を使っている以上むやみに近づくことは出来ない。

「……ったく、面倒くせえな」

 そうは呟きながらも、なんだか面白そうな話に少し笑って運転席の扉を開いた。

「さあて、帰るとするかね」

 今日は、月が綺麗だ。



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