PAGE
[緩やかな夜へ消える]
上月しぐれ









 いつも通り自分のやるべきことを淡々とこなしていくだけの毎日。
 山を過ぎたのか、泣き落としで書類を渡される機会もここ最近めっきり少なくなった。そのおかげで早くに帰ってゆっくり出来るのはもちろん嬉しいものの、正直少し時間を持て余している状態が続く。

「よっ、今日飲みに行かないか?」
「あっ、悪い。今夜は彼女とデートなんだわ」
「あ、ああ……そうか」

 隣の同僚に誘いを掛けてみても、あっけなく振られてしまう自分に苦笑した。

「上月、お前も浮いた話の1つや2つないのかよ? もう28だろ? 結婚だって考える歳じゃねえか」
「はは……そんなめでたい話がありゃあお前なんか飲みに誘ってないよ……」
「お前なんかってなんだっ!失礼なヤツめっ!」
「あはははっ、痛い痛い!」

 それは自分だって出来ることなら女性ときちんとしたお付き合いをして、暖かな家庭を築きたい。でもそんな細やかな希望や夢も、今はまだ叶えられる自信があまりない。

「にしても、お前は優しくていいヤツだし顔が悪いって訳でもないのに、なんで彼女が出来ねえんだろうな」

 その言葉にまた苦く笑って、頭を掻いた。

「俺、ツイてないからなあ……色んな意味で」
「ああー、なんかそれ分かるかも。お前いいヤツ過ぎてすぐ悪い女とかに騙されるタイプだろ」
「ははは……まあ、そんな感じかな」
「あっ、いけね!もうこんな時間か!じゃあな、お疲れ!」

 慌ただしく掛けていく背中に力なく手を振って、改めて辺りを見渡す。
 今日は週末。明日は仕事が休み。どうやらデートの約束が入っているのはアイツだけじゃないようだ。全体的に浮き足立っている職場の雰囲気にいいなあと羨む視線を隠さないまま、予定のない寂しい時間を埋めるようにして、仕事をするために目の前のパソコンと向き合った。

「お疲れ上月、お先」
「あっ、はい!お疲れ様でした!」

 少しだけ触るつもりが、気づけばもう21時。
先輩に挨拶を返そうと顔を上げてみれば、辺りにはもう誰も居なくなっていた。

「……ふう、俺もこれくらいにするかな」

 大体のやるべきことは終わった。これで週明けはだいぶ仕事が楽だろう。明日は休みだし、今からひとりでどこか飯でも食いに行くか。
 凝った肩や首を回しながら最後に大きく伸びをして、全ての電源を切ってはゆっくりと鞄に手を掛ける。
 自然とこぼれ出るため息は、一体どこへ消えていくのだろうか。
賑やかな週末のせいか、どこか虚しさにも覆われている心を埋めるように頭を振った。

「あれ、週末なのに残業? 精が出るねえー」

 その瞬間、久しぶりに聞いた気がする間延びした声に、窓口の方へ顔を向ける。

「……あれっ、前河さん! こんばんは」
「こーんばんは」

 前となんら変わりないマスク姿で、カウンターに頬杖をついて微笑む目元。
ここ最近は早くに帰宅をしていたせいか、めっきり会わなくなっていた人の傍へと迷わずに立ち上がって近付いた。

「お久しぶりですね、あの書類はちゃんと通りました?」
「ああ、なんとかね」
「そうですか、よかった。今日はもう白衣を着てないんですね。っていうことは、今からお帰りですか」
「そ。上月さんも?」
「ええ、まあ」

 この距離で改めて見てみれば、ずいぶん色素が薄い目だ。そして明るすぎない落ち着いた茶色い髪。なにより綺麗な指先。

「よかったら車で送ってくけど、どうする?」

 マスクの中に籠った低い声も、心地よく鼓膜を揺らす。

「ああ、今日は外食をしようと思ってますんで、お気持ちだけありがたく受け取らせて頂きます」
「へえ、外食かあ。なに食うの?」
「普通の飯ですよ、居酒屋とかで適当に」
「酒は強い方?」
「ええ、まあ人並みってところです」

 当たり障りのない会話しかしていないのに、この人との会話は酷く自分の心を落ち着かせる。
 あれだけ週末の波に流されて酔潰れてしまおうと思っていた衝動も、もう今では引いていた。

「よかったら、前河さんもご一緒にどうです?」
「えっ」
「いい店見つけたんですよ、最近」

 前の車内であれだけなにを話していいのか分からなかったのに、もうそんなことも忘れたように軽々しく生きる世界の違う研究者の人を飲みに誘うなんて、自分はなんて寂しい人間なのか。

 前河さんもこんな急な誘いに驚いているのだろう。2、3度瞬きをして少し考えるような沈黙が流れた時、ようやく自分が彼を困らせていることに気付いて、この空気を誤魔化すように明るく笑う。

「あっ、いや、無理言ってすみません。前河さんは車ですもんね。いやあ、独り身なモンで勝手な我が儘ばっかり」
「あー、いやいや、いいのいいの。上月さんが悪い訳じゃないし。俺も独身だし。今日は流石に無理だけど、いつもどこで飲んでるの?」

 こんな罪悪感も綺麗に受け流して、会話を進めてくれる優しさが痛いほど突き刺さる。

「あっ、えーっと……個人的によく行くのは、ここから5つ行った駅前の焼き鳥屋さんとかですかね」
「ああ、あそこね。知ってる知ってる」

 もっと話していたいのに、それが出来ないことが分かっているから後ろ髪を引かれてしまう前に自分からその身を引いた。

「なんだかすみません……いつの間にか下らない話ばかり。前河さんは早く帰りたいだろうにこうして引き留めてしまって……」
「俺から振った話じゃない。なんで謝るのよ。ここでの雑談でよければ、いくらでも付き合っちゃう」

 なのにそんな俺を逆に引き留め返されるような台詞と微笑みに、思わず嬉しくなって調子に乗った口が止まらなくなってしまう。

「……優しいんですね、前河さんは。あっそうだ、じゃあ最後にこれだけ。羽賀さんの素顔はあれからご覧になれました?」
「んー……いいや、見てないねえ。けど研究は順調」

 間延びした仕草や動作の中でも、どこか不思議な品のある微笑みに癒されているのかもしれない。
 もしくは、こんな凄い研究所で働く人が、至って普通の自分みたいな事務職員とあえてふたりきりで仲良く会話してくれることに、変な優越感を抱いているのかもしれない。

「そうですか……なんだか羽賀さんの素顔も気になりますけど、俺だんだん前河さんの素顔も気になって来てしまいました」
「ダメだよー、咳き込んじゃうから」
「息を止めてる状態でマスクをずらしても駄目ですか?」
「やーだね」

 折れてくれそうにない微笑みに、人前でマスクを外せないほど気管系が悪いのかと思うと逆に心配になってきた。

「前河さん……あんまり酷いようなら、ちゃんと大きな病院に行って1度喉を検査してもらってくださいね。なにか大きな病気の可能性もありますし」

 恐れ多いとは分かっていても、笑顔を消して至って真面目な表情をしながら発した台詞。
 なのにこれを聞いた人は、またしばらく無言で瞬きをした後、最初にここで笑い転げた時と全く同じ仕草で楽しそうに腹を抱えた。

「あははははっ!」
「!?」

 その声量と明らかにからかうような笑い方に、せっかくの心配を無下にされたような気がして、怒りと悲しみと恥ずかしさで顔に熱が集中していく。

「もうっ! 俺は心配してんですよ!? なのにそんな笑い転げて! ふざけてんですか!」
「ち、違う違う! ごめんって」
「もう知りません! じゃ、お疲れ様でした!」

 昂る感情を噛み殺すようにキュッと唇を閉ざして、窓口と反対側にある出口へと大股で足を進める。その途中、鞄と鍵束を忘れることはしなかった。

「ちょっと〜、怒らないでよ。ごーめんね。いや、俺笑いのツボがちょっとおかしいのよ」

 真っ暗になった事務局に響く声にも反応しないまま施錠を済ませて警備員室に向かっている途中、後ろから自分を追いかけるようについてくる足音が響く。

「週末にこんな終わり方するなんて心外だからさー、謝らせてちょうだいよー」
「別に怒ってませんから! お気になさらず!」

 非常灯だけが照らす薄暗い廊下の奥を目指して、後ろの音から逃れるように素早くその明るい部屋へ入ろうと角を曲がった刹那、今度は前方からやってきた誰かに勢いよくぶつかりそうになって、慌てて足を止めた。

「っと! あっ、すみません!」

 その時フワリと漂ったのは、黒いTシャツに服に染み込んだ苦い煙の香り

「ん? おう」

 相手の服に鼻の先が擦れそうなほど近い距離で咄嗟に見上げれば、低く穏やかな声の主はマスクをしていて、眠そうに黒く短い髪を掻いた後ろの警備員室の中で、さっき掛けられたらしい鍵束が揺れる音。

「……? おい、大丈夫か」

 その鍵束の上に貼ってあるプレートには第3研究室の文字。そしてそこは、羽賀郡司さんが管理責任者を務める場所。

「勘弁してよ上月さぁーん、絶対アンタ怒ってるし、俺気になりますからー」
「げっ……!?」

 ようやく後ろから追い付いた声を聞いた刹那、何故か目の前の人は焦ったように乱暴に俺の体を押し退けた。

「邪魔だ……!」
「う、わっ……!」

 元からかなり距離が近かったせいか、押し退けられる力が思いの外強くて、隣の壁に背中を叩き付けられた刹那指先から鍵が落ちる。

「……あらま。上月さん大丈夫?」

 自動ドアが開いて黒いTシャツが外の闇へと消えていくのを見詰めていれば、後ろから追い付いた人が落ちた鍵束を拾ってくれた。

「…………」
「おーい、大丈夫ー? もしかしてどっか打ったとか?」

 何事もなかったかのように軽く問うてくる人に、無意識に近い動作で静かに問い返した。

「……前河さん」
「ん? なに」
「……今のって、もしかして……」

 羽賀郡司さんですか。

 まるで無機質な鋼のように固くなった声音に「んー」と少しうなってから、小さく曖昧な答えが返ってくる。

「……ま、そうかもね」

 優しい手つきで渡された鍵を力なく握って呆然とした頭をなんとか整理している内に、段々と置き去りにされていた感情がこみ上げてきた。

 あれだけ噂をされて不憫だと思っていた人は、本当に噂なんてあまり気にしなさそうながさつで乱暴なひと。とてもあの几帳面な書類とは結び付かない、真逆の動作。
 こっちが一方的かつ勝手にイメージを膨らませていたのも悪いかもしれないけれど、想像を悪い意味で裏切ってくれた背中が目に焼き付いた。

「……なんて失礼な人なんだ」
「えっ……」

 ぶつかりそうになったとはいえ、初対面の人を突き飛ばすようにして出ていくなんて礼節に欠けている。
 それはまるで自分が研究所で推されている存在だというのを自負していて、どんな横暴でも許されるといったような態度。

「あんなの、人として最低です。ガッカリしました。羽賀郡司さんって、ああいう方なんですね」

 恐らく自分と一番馬が合わないタイプだ。
 第一印象だけでそう判断せざるを得ないほど、ぞんざいな扱いを受けたような気がした。

 こんな怒りはお門違いと言ってもいいのに、大人気もなく不機嫌さを隠さないで鍵束を返す後ろで「あっちゃー……あのバカ」と困り果てたような声が響いては消えていく。

「前河さんにはもうなにも怒っていないですよ。俺もこんな歳になって未だにうまく感情がコントロール出来なくてすみません」
「うん……ま、それは全然こっちが悪いし、いいんだけどサ……」

 どこか歯切れの悪い言葉に、有能な同僚で親しい人の悪口を目の前で聞かされたのだから、それは前河さんにとっては気分のいい話ではなかっただろうとすぐに緩衝材代わりになる言葉を探した。

「あ、いや、すみません……俺って昔から頭が固くて短気で……。個人的に自分と羽賀さんは性格が合わないだろうなって話で、悪口じゃないので。同室の方のことを酷く言ってしまって気を悪くされたなら申し訳ありません」

 でも結局口下手な自分がうまく話せるわけもなく、いたたまれなくなって逃げるように背中を向ければ素早く掴まれた腕。

「いや、俺はなんともないよ。むしろあの態度は流石にないよねえ。上月さんが怒ることの方に理解を示せちゃう。俺もアイツの行動には引いたもん。いやいや、マジで」

 どうしてこの人は、こんなにも優しいのだろうか。

「でも、いや、確かに羽賀は変人だしヤな奴だけどさ……ちょーっと勘違いされやすいっていうか……ホントはね、あんなヤツじゃないのよ、うん。ホントは」

 俺みたいな人間から、他のクセを持つ研究者の人まで幅広く理解できているような器の広さから出たとしか思えない発言は、ますます自分の小ささを痛感させる。

「……ですよね。よく知らないのに嫌ったりしたら駄目ですよね」
「…………」
「けど俺、どうも頑固で。ああいう失礼な人とか嫌いなんです。あと、悪質な嘘つきはもっと嫌いですけど。この暑苦しい見た目通り、鬱陶しくて面倒なヤツなんですよ、俺は」

 その言葉に一瞬空気が変わった気がして、俯いていた顔を上げた。

「あ、前河さんはもちろん違いますよ。あなたはこんな俺にでも優しくしてくれる立派な方です。嫌いにはなりません」

 まあ、あなたがなにを考えているかまではバカな自分には分かりませんが。
 そう付け足して、腕時計をチラリと覗き込む。

「じゃあ俺、そろそろ腹も減ったし帰ります」

 だから、手。そう訴えたつもりが一向に離されることのない手首に違和感を覚え始めた時、何故かやけに真剣な眼差しをした人が、間延びした声を消して静かに口を開く。

「……飯、やっぱりご一緒してもいいですか?」

 あまりに低く真面目な声音に緊張感が走って答えを返すことを忘れていれば、それを和らげるようにニコリと目だけで笑った人がスルリと綺麗な指先を離した。

「酒はもちろん飲めませんけど、なんだか今から帰ってコンビニ弁当食うのも嫌になっちゃって。ああ、もちろん上月さんが嫌なら話は別ですが」

 今の複雑で気持ち悪い心境の中そんなことを言われて断れるほど、自分は強くない。
 だけどまたこの人の大きな器に甘えてしまうのかと思えば、ますます情けなくなっていく。

「い、いえ。俺は全然構いませんしむしろ嬉しいですが、今日はあまり楽しい空気にはなれないかもしれません。もしかしたらまた愚痴っちゃうかも。飲みたい気分なので、泥酔でもして前河さんに醜態を晒してしまったら……」
「いいよ。泥酔したとしても家まで送るし気にしないから。明日はお休みなんだし、じゃんじゃん飲みなさいよ。ささ、そうと決まれば行きましょう」

 自虐的になっていく言い訳じみた言葉を簡単に遮ってしまう声が、ふわりとその体も動かして前を歩いて行ってしまう。それにすがるように、なにも考えないまま追い掛けた。

「もうすぐ夏ですねえ」

 生暖かい夜風が頬をくすぐって、前にも乗せてもらった車へ一緒に足を進める。

「はい、ドーゾ」
「あ、ありがとうございます」

 遠くから車のロックを外した人は、ついでだと言わんばかりに目の前にあった助手席の扉をわざわざ引いてくれて恐縮してしまう。

「たまたまこっち側にあったから開けただけだよ。そんなに気にしないで。俺、誰にでもこうするから」
「は、はい」

 男女関係なくこんなことをサラリとしてしまうなんて、彼は根っからの紳士なのか。羨ましい。

「さあて、流石に腹へったねー。今にも鳴りそう」
「ははは……俺もです」

 力なくシートベルトを締めれば、またゆっくりと踏まれるアクセル。

「焼き鳥とか、好きなの?」
「ええ、まあ。でも基本的に飲めればなんだっていいんです。俺は食べ物より店の雰囲気とか居心地で決めることが多いですかね」

 いつの間にかまたこの流れていく景色のように、ありふれた話題へと変わっていく。

「うんうん、雰囲気は大切。俺個室タイプのとこが好き」

 この人は悲しみや怒りといった負の感情を表には出さないから、本当はなにを考えているのか分からない。
 きっと当たり障りのない、楽しいだけの会話が好きなのだろう。だから俺ともそういった会話を望んでいる筈だ。やっぱり変に酔って愚痴なんて聞かせて幻滅させたくない。

「そういえば上月さんって肌がいい具合に焼けてるよねえ。なにかしてるの?」

 明るく、気丈に振る舞わなければ。

「ええ、昔からずっと陸上をやってまして……そのせいですかね」
「へえー、陸上かあ。短距離走の選手?」
「えっ? はあ、まあ。どうしてお分かりに?」
「いや、ただの直感。なんか、アンタは短くて真っ直ぐな道をダーッと全力疾走してそうだったから」

 また目を細めて笑う横顔とその台詞に、苦笑いで返しながら頭を掻いた。

「……それ、ただ見たまんまの印象じゃないですか……」
「ははははっ、でも間違ってなかったじゃない」
「そうですけど……」

 そんなに自分は端から見ただけでも性格が分かってしまうほど、稚拙な外見をしているだろうか。いや、外見よりも言動の問題か……。

「……はは、俺も前河さんみたいにもっと大人な対応の出来る人間になりたいです……」

 喜怒哀楽を抑えてコントロールして、いつだってニコニコ笑いながら人の話を聞いていたい。
 事務の仕事をしている時は出来るけれど、プライベートに入ればこの有り様だ。隣で座る彼が立派に見えて仕方ないのは当然だった。

「俺は感情を受け流すのが癖みたいなモンだからねえ。なんか、わざわざ他人のために怒ったり悲しんだりするのって疲れるじゃない。だから逆に上月さんは凄いと思うよ。嫌味じゃなくて、ホント、純粋に素敵だと思う」
「……そう、ですかね……まあ、それで痛い目しか見たことないですけど」

 はあ……とため息をもらせば、わざとからかったように「おっ、これは苦い経験談が聞けそうだねえ」と笑った人を思わず小突く

「俺にとっては、本当にヤなことなんですからね」
「分かってるよ。アンタが素直でいい人だからこその話じゃない」
「どれだけよく言われても、こっちは惨めになるだけですって……」

 どんどん近づいている目的地の飲み屋。交通量の多い駅前で、駐車場を探そうと窓の外へ顔を向ける。
 その時たまたま空いていたところを指差せば、滑らかにハンドルを切った人が軽く口を開く。

「なんで?俺は好きだよ、上月さんみたいな人」

 車が止まった時、その台詞に薄く笑いながらシートベルトを外して扉を開いた。

「そうやって言ってくる人に限って、よく俺を騙したりするんですよね……コレが」

 綺麗な月が、ネオンに負けそうな弱々しい物に見えてしまう。
 なぜかしばらく経っても車から出てこなかった人は、ようやく運転席から外へと足を踏み出してきたかと思えば、無表情のまま車の鍵を閉めた。

「……お待たせ。さ、行こうか」

 感情は見えないのに、どこか儚さが漂う瞳が月明かりに照らされて、幻想的な空気すら感じ取れる。
 視線が外せないで凝視していれば、長い睫毛が一度瞬きをし、不思議そうにこっちを流し見た硝子玉のような瞳。

「どうしました? 急に固まっちゃって」
「あ、い、いえ……すみません」

 それでぼんやりしていた意識がやっと現実に引き戻されて、先に出ていた筈が慌てて彼の背中を追うような形になっていた。

「ワーッと飯だけ食ってたらもうラストオーダーではい閉店になっちゃうかもしれませんねえ」

 店へと繋がる階段を上りながらそう呟く彼の言葉に腕時計を見れば、もう23時前。確かにゆっくりと出来る暇はなさそうだ。

「ま、物足りなかったら2件目でも行きますか」

 言葉と同時に扉を引く彼は、なにをやらせても手慣れたような仕草に見えるのは気のせいか。

「ごめんなさいねこんな時間に。食ったらすぐ帰りますんで、いいですか?」
「はーいどうぞー!カウンターと個室がありますけど!」
「あ、じゃあ個室の方で」

 柔らかく淡々と店員と話を進めるのをただ見詰めて着いていくだけの自分は、導かれるがままたどり着いたテーブル席へ向かい合うように腰掛ける。

「なに飲む?」
「あっ、ビールで」
「はーいよ。適当に注文しちゃってもいい?」
「あ、はい」

 ここへ来て注文でさえ手際よく済ませていく前河さんを見詰めながら、もしかしたら飲み食いする時くらいは流石にこのマスクが外されるんじゃないかと、今さら変な期待感がわいてきてしまった。

「今でもよく走るの?」
「えっ?」

 変に上がっている心拍数を冷房の空気で誤魔化している途中、突然投げ掛けられた疑問に真っ白になった頭。

「ほら、陸上」

 それを言われてようやくさっきまで話していたことを思い出して、ああと微笑み返す。
 いけない。変なことを考えていては駄目だ。頭のいい彼にはすぐに見抜かれてしまいそうな気がする。

「走りますよ。まあ、競技からは引退してるので今はもっぱらただのジョギングですけど」
「じゃあ休みの日にはよくジョギングしてるんだ」
「まあ、やることがないときは」
「どこら辺走るの? 川沿い?」

 それにしても、興味のないであろう話題に対してでも、きちんと掘り下げて話を聞いてくれる人だ。
 彼の話の聞き方は、まるで俺を理解しようとしてくれているようですごく好感が持てる。

「そうですね。近いですから川沿いが中心になります。景色もいいし」
「へえ。俺も一緒に走ろうかな」
「まさかその時もマスクつけたまま走るんですか? 追い込みますね〜。めちゃくちゃしんどいですよー」

 沈んだり上がったり、本当に忙しない精神状態。だけど彼と一緒に居るぶんには、落ち込んだあともそれを引き摺らずきちんと持ち直してしまえるような空気があった。

「あら、もしかして俺のこと研究ばっかりしてるインドアな貧弱野郎だと思ってる? これでも脱いだら結構凄いタイプなのよ」

 それはこの独特な口調だったり、言葉の選び方が俺を心地よいと思わせてくれているのかもしれない。

「そうなんですか? 意外です。見た目はかなり細身に見えるのに。着痩せするんですね。なにか運動をされてるんですか?」
「ま、ロッククライミングを運動って言うのか分かんないけど」
「ロッククライミング!? はあ〜、なんか凄いですね。けど、怖そうだ……」

 聞けば聞くほど、自分とは違う世界が垣間見える。ロッククライミングをしている知り合いなんて生まれて初めて会った。
 驚きと好奇心に弾んでいた胸。それを更に盛り上げるタイミングでやってきたビールと烏龍茶に、
心拍数がピークに達する。

「おっ、やっと来た。んじゃ、今週もお疲れさまでしたっと」
「あ、ありがとうございます!前河さんもお疲れでした」

 いつマスクを取るのか緊張の瞬間が続く中、こんな好奇心を知られたくない真面目な部分が自分にビールを煽らせて、一気に半分近くまで飲み終えてからグラスを置いた。

「っぷはあ、美味いっ!」

 知らない間にかなり渇いていたらしい喉のおかげか、いつもの数倍味を増したように感じるアルコールの苦味が口に広がるのを噛み締めながら、恐る恐る再び前を見る。

「おー、いい飲みっ振りだこと。男らしいですねえ」

 そう言ってにっこりと笑った彼は、なんと烏龍茶に付属されていた黒いストローをグラスに差し込んで、マスクの位置はそのままに下側を少し浮かせたその隙間へ更にストローを通して口元へと器用に飲み物を運んでいた。

「ま、マスク……取らずに飲むんだ……」
「えっ? ああ、やっぱりおかしい?」

 無意識の内に言葉にしていたらしい口をハッと押さえて、直ぐ様空いた方の手を手を左右に振る。

「い、いえ! 喉が悪いんですからそうやって飲まないと体がツラいんですよね! すみません!」


 咄嗟にこうやって口を開くことは出来たけれど、マズイ。絶対に今ので俺が素顔を見たがっていたのに気付かれた。恥ずかしい。どうしよう。
 それを裏付けるように急に無表情になった彼の顔色を伺う限り、どうやら自分は前河さんに嫌われるのをかなり恐れている。

「……あのさ」
「は、はいっ」
「おかしいと思わない?」

 だからたまに見える、こういった真面目な低い声を聞いた時、どんな風に返せばこの人の望むような答えになるのかを考えすぎて、逆になにも話せなくなっていく。
 それでもなにかを返さなければいけない。一体彼はなにについておかしいと問うているのだろうか。わからない。

「……い、いや。具合が悪くなることを知ってる人から見れば、別にマスクをつけたままだって……」
「そうじゃなくて」

 しまった。当てずっぽうが見事に外れた。
 そんな動揺を隠すように汗をかいたビールジョッキの表面を指先でなぞる。

 でも前に座る人は俺を気にもしていないような声音で言葉を続けた。

「迂闊にマスクを外したらどこでもゲホゲホ咳き込むような男が、一緒にジョギングしたいなんて言うと思う?」
「……えっ?」
「気管が弱い人間がロッククライミングなんて本当に出来ると思ったの?」

 彼の声に緊張が含まれているせいか、こっちまで強張り始める体。
 だけど言葉の意味を噛み砕いていく内に、なんとなく言いたいことが伝わってきて、テーブルに出ていた両手を膝の上に乗せる。

「もしかして……喉、本当は弱くないんですか」
「……うん、ごめん」
「どうしてそんな嘘を……」

 思わずそうこぼした台詞に、本当に気まずそうに視線を反らした人は、次々とやってくる料理に手をつけることもしないまま困ったように頭を掻いた。

「いや、俺、昔から自分の顔にコンプレックスがあってね……あんまり人に見られたくないのよ」

 うつむき加減でぽつりぽつりと語られていく言葉。
 いくらバカな自分でも、この人が今嘘をついているかいないかくらいは、注意していれば見分けることは出来る。
 この顔は偽りを語る表情じゃない。もしもこれすら嘘だと言うならば、この人は相当根っからの嘘つきだ。だけどどう見ても、彼がそんな人間とは思えない。

「……マスク、外そうか」

 無言の中になにを見出だしたのか、意を決したように顔の下半分を覆うものに手を掛けたのを捉えて、そっとそれを遮った。

「いえ、構いませんよ。今のままで」
「…………」
「そんな事情があるんだって分かったら、無理に見たいなんて思いません。今俺が好奇心に負けて素顔を見たとしても、あなたとの関係はきっと悪くなってしまいます」

 信頼関係は、相手の秘密を知っているかなんて情報で決まるものじゃないことは、複雑な環境に囲まれている内に学習した。

「そういうコンプレックスって、誰にでもあるものですよね。だから前河さんがいつか『この人になら見せられる』と思う時や人が来るまで、無理に見せる必要はないですよ。誰にも」

 本当に信頼関係を築きたいなら、無条件で信頼するしかない。
この人になら騙されていてもいいという万が一の覚悟すら抱きながら、慎重に。

「仕方なく他人に晒したくない所を見せて、最終的に傷付くのは俺じゃありません。あなたです。そう思うと見せられるこっちもツラいですよ」

 嫌われたくないと思う相手のためなら、自分はいくらでも待てる。

「……そうだね」
「そういう事情があるなら、俺は全然気にしませんから」
「ありがとう。そう言ってもらえると嬉しいよ」


 顔にコンプレックスがあるという言い方をすれば、きっと興味本意で無理にマスクを外される可能性があるからあえて喉が悪い体質という言葉で誤魔化していたんだ。
 そんなに彼自身が苦しんでいる、心の深い場所にある繊細な部分に踏み込むようなことはしてはいけない。

「嘘つきは大っ嫌いって言ってたからさ、俺すんごいビビっちゃったよ。はは……」

 どこか一息ついたようにも見える目元やその意外な台詞に、もしかして彼も俺に嫌われたくないと思っていてくれていたのではないかと思えば自然と上がる口角。

「こんな嘘なら普通に大丈夫ですよ。俺もそこまで偏屈じゃありませんから」
「じ、じゃあどんな嘘がダメ?」

 いい気分の中空腹を埋めるように食べ物を口に運びながら、どんな嘘と言われても……と思いつつも少し考える。

「んー……そうですねえ。例えば前河さんが『実は俺が羽賀郡司でしたー』なんて言い出すようなふざけた嘘は流石に許せませんかね、はははっ!」

 まああり得ないだろうけど!
 こんな冗談で笑う自分の方がよっぽどおかしいと気付きながらも、最後にまた笑って前を見れば、前河さんはどこか引き吊った表情をしたまましきりに烏龍茶を飲んでいる。

「……あの、食べないんですか?」
「あ、ああ……うん。俺あんまり腹空いてないから」
「えっ、でも研究所出るときは今にも腹が鳴りそうって……」
「あっ、ああ、うん、いや、ははは、運転に集中してたらいつも空腹引いちゃうタイプなんだよねー」

 こういう時、表情全体を見れないのは少し不安だ。ただでさえ彼はなにを考えているのか分からないのに、本心を見つける術が唯一露出している目を見つめることしかなくなってしまう。

「そうですか……」
「気にしないでどんどん食べちゃって。俺、上月さんの豪快な食い方見るの好き」

 微笑んで全てを洗い流してしまう人の思惑になんとなく気付きながらも、結局は流されてしまう自分のこんな部分に、お人好しと言われる所以や騙されやすさが詰まっているのだとしても、この人は大丈夫だろうと思ってしまう。

 結局いつまで経っても、俺は自分が人間として尊敬や好意を持った人のことは無防備になんでも信じてしまうって訳か。

「あんまり見られると、さすがに食いにくいです……」
「照れちゃって、かーわいーい」
「男に可愛いはナシでしょ……って前に前河さんいってましたよね……」
「そうだっけ?」

 今までは自分と似たような思想や行動を取る人と関わってきただけに、彼はすごく新鮮で楽しい。
 しかも立派な研究者。秀でた才能を秘めた姿は同じ男として憧れる。

「はー、お腹いっぱいです!」

 あれから酒を煽る手は進むものの、初めての相手と飲むこともあってか気分は高揚しても泥酔状態には入らない。

「よかったよかった。んー、じゃあここももう閉店時間だし出るとしますか」
「はいっ」

 今日初めてにしてようやく会えた羽賀郡司さんにがっかりしたことや、前河さんに比べて自分の器の小ささに怒ったり悲しんだりはしたけれど、前河さんと一緒に飲んでたくさんの話ができて本当によかった。

「2件目はどうします?」
「行きたい気持ちは山々ですが、今日は一気に腹に詰め込みすぎて……」
「あら、もう眠くなっちゃった? じゃあ気持ちいい内に寝たいよね。お開きにしようか」

 全てを言葉にしなくとも真意を理解してくれる人はまた優しく、笑顔で。

「送るよ」

 目元しか見えないのに甘い素顔を想像してしまう。

「ごちそうさま、おあいそお願い」

 きっと同性にもこれだけ優しいのだから、前河さんは女性に相当モテるだろう。
 俺はこんな優しいことを自然な笑顔でできる自信はない。

「あっ、折半させてください」
「いーのいーの、今日は俺に払わせてちょーだい」
「でも……」
「その代わり次はお願いしちゃうかも」

 財布を出す手も軽々しく遮ってレジへと歩いていく背中に頭を掻いて、一体どこまで男前なんだと呟いた。

 今日は有り難くご飯を頂いて、挙げ句の果てには家まで送ってもらう途中、酒の勢いもあってか踏み込んだことも平気で口にしてしまう。

「前河さんは、彼女とかいらっしゃらないんですか?」
「んー? 彼女かあ……居ないねえ」
「うーっそだあー、こんなに優しくて紳士なのに?」

 月明かりの中、強い青と赤と黄色の人工的な光が視界の端々に映り込む。

「し、紳士って……そりゃだいぶ違うだろうケド。そういう上月さんは居ないのかい?」
「欲しいですけどねえ。中々いい出会いがないですよ、やっぱり」
「アンタならすぐに結婚出来そうなモンだけど。出会いばっかりは仕方ないよねえ。まあでも、それさえクリアすれば大丈夫でしょ」
「……だといいですけど。俺、ツイてないからなあ」

 触り心地のいいシートを指先でなぞりながら、賑やかな週末の街を見送る闇と夢の狭間。
 それから10分も経たない内に、あの店から案外近い自分の住むアパート付近へすぐに辿り着いてしまった。

「あっ、コンビニの前でいいです。水買って帰るんで」
「はーい」

 本当はもっと話していたいのに。だけど眠い。

「なんだか毎回すみません……」
「俺が好きで送ってんだから、謝らないでよ」

 星がこぼれ落ちそうな夜。また真っ白な人工の光が眩しい箱の前で両足を地面に乗せて、開けられた助手席の窓の奥で運転席から微笑んだ人がどこか困ったように言葉を選ぶ気配。

「今日も楽しかったよ」
「それは俺の台詞です。こちらこそ、ありがとうございました。次は自分にご馳走させてくださいね」
「頼もしいこと言ってくれるじゃない」

 本題がここじゃないこともなんとなく悟ってしばらく静かにしていれば、低い声と揺れる眼差しが照らされる。

「……今日の羽賀の言動、俺が謝るよ。ごめんね」

 最後の最後まで、なんて優しい人。

「前河さんが謝ることないじゃないですか。なにも悪くないのに」
「……あー、まあ、そうね。けど、こっちにも色々あって」

 何故かまた気まずそうに頭を掻く彼の伏せられた顔に、まさか研究所以外の場所でも羽賀さんを立てなければいけない状況に前河さんが居るのかと思えば、ますますあの人が憎くなってきた。

「……俺、やっぱり羽賀さんは嫌いですけど、前河さんはすっごい好きですよ。これはよっぽどのことがない限り絶対に覆りません。安心してください。色々大変でしょうけど、頑張ってくださいね! また飲みましょう、俺に愚痴ってくれてもいいんですから!」

 精一杯気持ちを込めて励ました筈が、返ってきたのはあまり手応えのない声。

「は、はは……。そ……ありがと」

 結局そのまま去っていった車を見えなくなるまで見送って、自宅へと足を進める。

 アスファルトには、どれかも検討のつかない光が反射していた。




[←前|次→]
[←戻る]