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[巻き込まれ体質で候]
前河敦








 相変わらずつまらないテレビしかやっていないことにため息をついてからチャンネルを探していた手を止める。

「……はーあ」

 結局つけっ放しにしたまま面白い番組探しは諦めて、仕方なく今週買ったばかりの雑誌に手を伸ばしてそれを開いた。

 次々と功績を上げていく同業者を見ていて、また進歩していく科学に浮かぶ笑み。だが今自分があの変人かつ誰もが認める鬼才を持った羽賀のもとで進めている研究も、この段階でかなり注目を浴びている。きっと論文を書き上げて発表すれば、全世界に取り上げられるに違いない。
 ただその発表までにたどる道のりが、恐ろしいほど地味で辛抱強さがいる。
 その点大胆な発想を尽かせることなく淡々と精密に作業をし、更には効率までいいんだからアイツはまさに科学を進歩させるために生まれたような男。

 ただ、あれだけの天才脳を持ち合わせているせいか、人間性にかなり問題があることは間違いない。

 研究者としては全く隙がないが、羽賀は対人関係を極端に嫌がる。
 研究の話しには真面目に応じるが、それ以上は決して他人に踏み込ませない。その象徴があのマスクだ。素顔を誰にも晒さない。
 大学院の時からもうずっと研究を共にしている、自分にすら。

「そんなのに急に友達が出来たってんだから、不思議だなあ……」

 逆に言えばどれだけ長い年月研究を共にしていても、アイツにとってはいつまで経っても俺たちは仕事道具でただの補助でしかないのかもしれない。

 虚しくないと言えば嘘になるが、仕方ない。俺がどうにかできる範囲を越えている。

 そこまで考えて、今日の帰り道やらかしてしまった失敗に頭を掻いた。
 いい歳をして急な事態にテンパったなんて本音は、アイツにはもうとっくに見透かされてしまっただろうか。それよりもあの後の事だが……まあ、羽賀なら器用になんとかするだろう。
 なんせ嘘と会話を誤魔化すことに関しても天才だ。そうたかを括って、手に持っているだけになっていた雑誌に改めて没頭しようと意識を向けた刹那、机に置いてあった携帯電話が鳴り響く音。

「…………」

 なぜか物凄く嫌な予感とやらに襲われながら、そっと上から画面を覗いてみれば『羽賀郡司』。
 今はもう日付を跨いだ深夜。これはただ事じゃねえ。

 おそるおそる機械を取って、通話に出る。

「……はい」
『お前、今どこ』

 そして向こうから響いてきた未だかつて聞いたことのないような低い声音に、冷や汗が止まらない。

「家に決まってんだろ、どうし……」
『今から行く。覚悟しとけよ』

 なんだ。なんなんだ。
 返す間もなく乱暴に切られた通話に唖然としながらも、訳のわからない展開にまたテンパってきた。
 まさか俺の取った行動のせいであの友達候補の事務君と喧嘩にでもなったか。……いや、羽賀が喧嘩なんてそんな無駄な労力を他人に使うとは思えない。ならなんだ。それにアイツが俺の家に来るなんて、明日は槍でも降るんじゃないか。
 いや、それ以前に羽賀は俺の家のある場所を知らない筈なのにどうやって来るつもりなんだ。

 そんなことを考えていた刹那、玄関扉が強く叩かれる音がして思わず肩が跳ねた。

「はっ……!?」

 もう来たのか、いや、なんで来れたんだ!?
 いやいやとりあえず扉を早く開けないとこっちの命が危ない気がする。
 ドアスコープから覗けば、やっぱり不機嫌そうに眉間にシワを寄せたマスクの男が立っていて、そっと外した施錠。

「お、お前なんで俺の家を……」
「そんなことはどうだっていいから、上げろ」
「おっ、おい」


 こっちが招く前に乱暴に扉を開けて靴まで脱ぐ動作を止められないまま、結局ズカズカと人の居間へと入っていく背中を見ながら玄関をまた施錠して、自分も中へと戻る。

「……ま、まあ茶でも飲むか?とりあえず座れよ」

 いくら気になっても、流石にこれだけ不機嫌な相手に『なにがあったんだお前』と自分の失態が絡んでいるかもしれない事を聞くだけの勇気は持ち合わせていない。
 だから何気ない会話からサラリと始めようとしたのに、こっちへ背中を向けたまま胡座をかいて畳へ腰を下ろした男は怖くなるくらい淡々と言葉を返してくる。

「茶なんかいらないよ。さっきたらふく飲んできた。友達候補と」

 明らかに核心へと触れながらトゲに包まれたその台詞に一瞬ドキリとした後、次にやってきた驚きの感情を隠すことができないまま声をあげた。

「アイツと飲みに行ったのか!? お前が!? 冗談だろ!?」
「冗談だったらよかったでしょーよ。俺だって飲みに行きたくなかったけどお前があんな態度取ってくれたお陰で行かざるを得なくなったんだっつーの!」

 ダンッと叩かれた机の上に置かれたコップがその衝撃で音を立てる。
それを聞きながら台所の前に突っ立っていた足を慌てて羽賀の方へと向けた。

「なにがあった、バラしたのか?」
「バラしてないよ、バラしたかったけどそんなこと言える空気じゃなくなっちゃったし。っていうかお前なんなのあの態度。普通初対面の人間を退けって言って突き飛ばす? そんな礼節ないヤツだっけお前って」

 我慢できずに聞き出したことをあっさりと否定された上に、痛いところを突かれて詰まる言葉。

「……うっ。いや、アレは俺も悪かった。あんまりにいきなり過ぎてだな、体が勝手に……」
「あの後なんて言ってたと思う、お前のこと」

 厳しい表情を崩さない目元がみるみる内に悲しみと焦りに染まっていく。あまりに羽賀らしくないそんな感情の変化を思わずじっと見詰めた。

「羽賀さんってあんな方だったんですね、ガッカリしました。だよ……なにそれもう最悪……」

 コイツは、こんなにも感情を表面に出すような事ができたのか。

「誤解を解こうとすればするほど墓穴掘ってさ……。こんなことなら最初から嘘なんてつかなきゃよかった……。お前今からでも遅くないからさ、せめて下の名前だけでもお互い改名しない?」
「ば、馬鹿言ってんじゃねえ正気か……! 親から貰ったモンをそう簡単に変えられるか! お前そこまであの事務君と仲良くなりたいのかよ……」

 こんな変わった奴に出来かけていた貴重な『友達』との関係へ水を差すような行為をしてしまった自分を思うと、これは悪いことをしたと頭を掻いた。

「まあね……でもあの人は俺のコトを前河さん前河さんって言って慕ってくれるけど、羽賀は人間として最低だって言われるとかーなり複雑っていうかさあ……」
「……ならもうバラせよ」
「バラせたらそうしてるっつーの。けど嘘つきは大っ嫌いって言ってた挙げ句に、どんな嘘がダメなのって聞いたら『実は前河さんが羽賀郡司でしたーみたいなくだらないオチのつく嘘は許せないですかね。まああり得ないだろうけど!』だよ!? そりゃないよねえ言えないよねえ!?」

 最初の怒りの色はどこへ消え去ったのか、今にも泣きそうな声音で話す背中を撫でようとすれば叩き落とされた。

「お前があんな態度さえ取らなかったら……。もうこれ本格的にいつ本当のこと言えばいいか分からなくなってきたパターンだ……」

 マスクの上から両手で顔を覆って俯くと同時に、はらはらと茶色い前髪が揺れ動く。あまりに悲壮感漂う空気に、大の男がこんなに落ち込むモンかと首を捻りながらもなんとか励ましの言葉を掛ける。

「ま、まあそう悲観的になるなよ……同じ男だろ? 実はって切り出しゃあ案外軽く許してくれるモンだって」
「もし嫌われたら!? お前に責任が取れんのか!」

 そんな慰めも倍の悲しさで膨らませて突き返してくる台詞に、募っていく違和感。
 これではまるで友達というよりも好きな女を口説いている真っ最中のような必死さだ。実際大学時代にこういった類いの相談を何回か受けていた気がする。
 だがコイツの今話している内容は男。
 友達が居なさすぎて、この貴重な機会へ必死にすがっているのだろうか。なんせ常人の常識が全く通用しないような男だ。

「わ、悪い……。なら、お前はこれからどうするつもりだ羽賀」
「それが分かってりゃあこんな汚い部屋に来てないよ!」
「き、汚いとは失礼だろうが!」

 珍しいことに本題が一向に進まない。だとすれば本当に羽賀は困っているのだろう。明日は槍どころか地球が内側から破裂するんじゃなかろうか。

「あぁあぁどうしよ……どうしたらいいんだ……。やっぱり顔だけでも見せとけばよかった……」
「なにっ顔見せようとしたのか!?」

 全く何から何まで、突っ込みたくなることのオンパレードだ。
 俺だって普段感情の起伏は少ない方だが、今日は酷い。

「したよ。全部嘘ついてたら後から苦しくなるのは俺だし。なるべく今の内から身を軽くしとこうと思ってさ。逃げの戦略だけど」
「そうか……って嘘だったのか!マスク付けっ放しなのは体調のせいじゃねえのかよ!」
「ならお前は体調のせいだって本気で信じてた訳?」

 冷静に、感情を殺した声。
 そう、コイツはいつだって他人のことも自分自身のことですらも、冷めた感覚で捉えて客観的に話をする。

「どーせ隠していようがいまいが、人の顔について下らない噂立ててんでしょうよ。不細工とかイケメンとかそういうくくりが好きだからねえ世間様は。ま、別にいいけど」

 変に突っ込むよりは、黙ってただコイツから吐き出されていく感情を聞いている方が正しい聞き方のように思えて、後ろの壁に背中を預けた。

「マスクしてんのは、顔にコンプレックスがあるからだよ。別にこの下に特別な何かがある訳じゃないけど、やたら他人からジロジロ見られるからそれが不愉快でね」

 今まで決して語られてこなかった、羽賀自身のこと。

「そう変わらない位置に同じようなパーツが付いてるだけだと思うんだけど、見るってことは変な顔なんでしょーね。だから誰にも見せない。元から他人と関わるのも好きじゃないし」

 不細工だろうと男前だろうと、それこそ俺は別にどうだっていいが、それを隠すからまた余計に噂をされるんじゃないかと言いかけて、また飲み込む。
 そんなことは羽賀だって充分理解した上で隠している筈だ。

「まあんなことはどーでもいいんだけどさ。問題はこれから上月さんとどうやってこの溝を埋めていくかだよ……果てしないねえー……あの人俺が前河だって信じて疑わないし……。どうしよ。もう泣きそう」

 生活感が溢れ返った狭い和室の中心部で、自分でコトをややこしくしておきながら項垂れる羽賀にため息をつく。

「……けどよ、いつまでも隠し続けるって訳にもいかねえだろ」
「んなことは分かってるよ。問題はどうやって、いつ、どのシュチュエーションとタイミングで打ち明けるか。それをさっきからずっと考えてんでしょーが」


 そう言いながら忙しなく一定のリズムで机を叩く指先。
 言い方は悪いが、これだけ羽賀が他人のために懸命になっている姿に、まるでアンドロイドに心が芽生えたに等しい奇跡の瞬間を目の前で見たような気がして感極まりそうだ。

「……俺はなにが出来そうだ?」
「は? お前の力なんかいらないよ。邪魔なだけ」

 やっと対人関係にも悩んで人を思いやれる本当の人間になったか。よかった。
 心の中で涙を拭いながら、違和感の塊だったものを今そっと口走る。


「……にしてもよ、お前さっきから聞いてたら、ダチ作るってえより女口説いてるみたいだぞ」
「ああ。確かにもしかしたら自然とそういう口調になっちゃってるかもしれないね。どうやら俺、あの人のこと好きみたいだから……」
「そうか、だよな」
「けど男同士で付き合うとか絶対あの人の性格的にあり得なさそうだから、だったらとりあえず良いお友達にでもなろうと思って」
「そうか、そりゃあ切なくも悲しい判断で……んんん!?」

 コップに入った水を煽りながら大人しく話を聞いている途中、途中からとんでもない台詞が割り込んできたことに気付くのがかなり遅れて、思わず口に含むものを吹き出しそうになった。

「お、おっお前、今なんつった……!?」
「だから、たぶん男に惚れてるって言った」

 あまりの衝撃に言葉が出ないってのは、この事か。頭はすごい速度で回っているのに、何一つ声にならない。

 そんな中で必死に、今日ぶつかりかけた相手の人相を思い出した。

 黒い髪、健康的に焼けた肌、そこそこがっしりした体格、好き嫌いがはっきり出そうな真っ直ぐな目。

 いや、どう贔屓目にしたって可愛さの欠片も見つかりそうにない普通の男だった、間違いない。しかも熱血の暑苦しい系で羽賀とは綺麗に真逆。
 あり得ない。あり得なさすぎてなにも喋れねえ。

「言っとくけどあの人以外の野郎に惚れる趣味ないから。俺も最初気付いた時、びっくりして先週の2日間は寝るのも忘れて悩んだよ」
「って2日間だけかよ!?」

 なにも喋れねえはずが、驚きのあまりまた勝手に声ってのは出るモンだから有難いのかなんなのか。

「これでも研究と同じくらい真剣に悩んだんだぞ。ノートに原因と理由を書き出して、夜通し悩みまくってさ。」

 その姿を想像して、思わず口元を手で覆う。

 いや、待て冷静になれ。まず普通の基準で話を聞いていちゃ駄目だ。
コイツは一晩もあれば、恐ろしいほどの成果を簡単にあげるようなバケモノだ。それが真剣に悩み考え抜いたってんだから、常人で換算すれば1週間引き込もって考えたレベルだと思っていい。

 あとノートに書き出すなんて労力の伴うことを平気で行ってしまえるその気力の傾け方。これは普通じゃない。

「……本気なのか」

 冷や汗も拭えないまま真剣に問うた俺に、ようやくいつもの見慣れた笑みが向けられた。

「……俺の分析によると、どうやらそーみたいね。なんで惚れたのか、これからどうするのか、会うのをやめるか適当に女との関係を続ける生活に戻るか。色々考え過ぎた結果、結局なにもかもがどーでもよくなっちゃったって訳」

 笑えねえ。笑うどころか心配の方が先に立つ。
 ようやく他人の気持ちが理解出来るかと思って安堵していれば、いきなり男に惚れたなんて言い出す始末。一体どこまで変人に堕ちれば気が済むんだ、コイツは。

「……そういうことなら悪いことは言わねえ。止めとけよ、お前の為だ。忘れた方がいい」

 俺以外の奴に知れたら噂なんかじゃ済まねえ話だ。最悪コイツの功績を妬む人間がどこかに情報を売り飛ばして名誉を傷付け兼ねない。

「お前のそういう所、けっこう信用してるよ」
「意味の分からねえところで褒めんな。茶化してないで金輪際関わらないって言え」
「俺とお前は腐れ縁。俺の手柄はお前の功績にもなる。その逆もまた然りってね」
「俺はテメェの損得勘定でお前にこんなこと言ってる訳じゃねえんだぞ……!」

 まるでこっちが目先の利益だけで助言をしているとでも言いたげな言葉に、さっきとは逆に今度は自分が強く目の前の机を叩く。

「なんで院生時代俺が派手に遊びまくってたのは止めなかった癖に、今度は止める訳よ」
「男と女とじゃ話が別だ。お前の社会的な地位に関わってくる」
「別にどーだっていいんだけどなあ。社会的な地位なんて」

 これだけプライベートで大きな変化があったのにも関わらず、研究の時は全くそんな素振りを見せずにいつもと変わらない飄々とした態度で集中していた背中は流石といったところか。
 いいや感心している場合じゃない。なんとしても引き離さなければ。

「なんかねえ、好きってもあの人とヤりたいって訳でもないし、ただ見てるだけでいーのよ。お前さ、あんなに綺麗に笑う人見たことある? 大人の癖に簡単に表情コロコロ変えて。かーわいいんだなあ、コレが。ま、別にお前は分からなくてもいいんだけど」

 怒りに任せて入ってきたかと思えば今度は悲しげに俯き、今は腑抜けた笑みをマスク越しに浮かべながら机で頬杖をつく男。
 羽賀の言っていることとあの事務の野郎とがどうもうまく一致しない。はっきり言ってあんなむさ苦しい同性にそれだけの感情を向けること自体理解が出来ない。やっぱりコイツは全く普通じゃない。思考だけじゃなく、頭の大事なネジまでその天才脳と引き換えに外れちまったらしい。

 いつだったか羽賀みたいになりたいと言っていたヤツがいたが、なれなくて幸せだ。
今のコイツを見ているともはや哀れにすら映る。

「ま、お前は口外するような奴じゃないだろうけど……一応回りには黙っといてって念押ししとこうか」
「馬鹿野郎……こんなこと死んだって言えるか」
「ははは、だよねー。けどもしも万が一俺を邪魔したり情報を売るようなことがあったら、なにをしてでもお前をこの世界から引きずり下ろすから、覚悟しときなさいよ」

 軽く笑って告げたはずのその声音に、背筋が凍り付く。
 なんて冷たく、無情な微笑みなのだろうか。恐ろしい。

「……お前が俺を信用してねえのはよく分かってるから、んな脅しめいた言い方はやめろ。気分が悪くなる」
「失礼なこと言うねえ。信用してなかったらこんなことお前に話さないよ」
「嘘つけ……。俺がお前の話に絡んじまったから仕方なく事情を話したんだろ? そうでもねえと話さねえよ、お前は。何年の付き合いだと思ってる」

 時計の針が刻々と進んでいく。丑三つ時に入っても全く眠気の色が混じらないのは、きっとこの会話のせいだ。

「あらま。俺ってそんなにお前からの信用ないんだ、かーっなしーい。まあ確かにそういう面もあるけど。相談してんだよ、普通にさ」
「……そんな普通の顔で、普通じゃない相談すんじゃねえよ……俺はアブノーマルな恋愛話にゃ相づちしか打てねえぞ」
「心配しなくてもそんな濃い話なんか出来やしないよ。ただでさえこれからどうするかで悩んでんのに」

 つけっ放しのテレビでは、下らない深夜番組で芸人がはしゃいでいる。

「……どうすんだよ」
「教えてちょーだいよ、逆に。なんも浮かばない。この俺がお手上げだなんて今までしたことあった? いや、ないね」

 またひとりでボソボソと……。確かにこれは相当追い詰められているようだ。

「……普通に考えりゃあ、このまますっぱり縁を切るか」
「嫌だ。あの人と話してないと俺死んじゃう」
「……なら、今よりもっと親睦を深めていく道中で事の次第を話すか」
「……だよねえ」
「ちなみに俺は後者には絶対反対だがな」
「はーっ。どうやったら上月さんに嫌われずに俺が羽賀郡司だって聞き入れて貰えるだろう……」
「お前俺の話聞く気ねえだろ」

 コップの外側についた水滴を指先で触りながら、呆れ気味に呟いた声が消えていく。

 自分がもし男に惚れたなんてことになったら、こんな呑気に開き直れるだろうか。
 いや、無理だ。きっと1ヶ月は寝込む。そして相手を諦める。
 その点、コイツは中々残酷な道を決断をしている。恋人を望まずに友人になろうとしているんだ。相手を女に変換すれば、いくら面倒見のいい方だと言われている俺にだってそんな立ち位置は耐えられない。

「……お前に固い決意ってのがあるんなら、結局俺みたいな他人にはなにも言えねえ事だけどよ。これだけは言っといてやる。お前の今から体験する片思いってのは、理屈や計算じゃ導き出せないくらい相当苦しいモンになる筈だ、覚悟しとけ。研究に響かせるなよ。それさえ理解してくれりゃあ、お前の初恋を応援してやるよ」
「……あら。案外物分かりがいいのね、お前」
「アホ。お前みたいなド変人が今さらなに言い出したところで、こっちは受け入れるしかねえんだよ。どうせ止めても無駄だろうが」

 そう呟きながら煙草の箱を引き寄せたところで、左斜め前に座っていた男が立ち上がった。

「それもそうか……んじゃ、なんかスッキリしたしもう帰るとするわ」
「……はあ? もうか? その事務君との今後はどうすんだよ。なにも話は進んでねえだろうが。大丈夫なのか?」
「ま、どーにかしますよ。どーにかねー」

 座ったまま背中を見送りながらも、ひとしきり感情を吐き出して落ち着いたコイツなら、まあなんとかするだろうとまた変な安心感を抱きながらくわえた煙草に火をつける。

「……ふーっ」

 白い煙を口から出して、慌ただしい夜を振り返る。

「……ったく。なんだかとんでもないことに巻き込まれちまった気がするなあ……」

 使われているのが名前だけとはいえ、今日実際に当事者にも出会ってしまった。

「……なんでわざわざ男に惚れんだ、あの馬鹿」

 張本人に聞こえもしないそんな小言は、外で鳴り響くクラクションの音に掻き消された。


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