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[日溜まりの中で走る]
上月しぐれ
爽やかな水辺の香り。緩やかな水流の音。弾ける水滴。舗装された道の端々から逞しく育つ植物の緑が左右を心地よく埋めて、透明な空気が肺を満たしていく。
細くても立派な土手。このまま下っていけばもっと道幅も芝生も広くなって、いい景色が広がっているらしい。ならば今日はそこまで走ってみようか。
「はっ……はっ……」
一定のリズムで足を進めて、息は乱さないように。
背中から包むように光を浴びる感覚が気持ちいい。
前河さんに陸上の話を聞き出されたりしなければ、きっと今日も部屋で寝て終わっていただろう。久しぶりにこうして走った。
なんて、心地のよい時間。
走る喜びなんてすっかり忘れかけていた。動いている間は、なにもかもを忘れられる。自分が自由なんだと実感できる。
今度は前河さんも誘ってあげよう。動くのが好きなら、絶対にジョギングも楽しめるはずだ。いつも室内に居るんだから、どこかで動かさないとあの人の全身もいつかカチカチに凝り固まってしまいそうな気がする。それに、ロッククライミングよりは遥かに気楽に出来るだろう。
それもこれも、人と雑談をしながら走る方が楽しいという自分の本音にも近い勝手な理由を付け足せばきっと一緒に走ってはくれないだろうから黙っておこう。
本当に充実していると自分でも思えるくらい、いい時を過ごしている。
「ふーっ……」
一度立ち止まって、滴る汗をタオルで拭う。
明日からまた1週間、なんとかやっていけそうだ。
週の明けた月曜日。
まだ誰も居ない職場へ入って静かに息をついていた矢先、早くも破られた沈黙に振り返った。
「よっ上月」
「あ、おはようございます先輩!」
「相変わらず出勤すんのも早いなあ〜お前」
「やだな、今日はたまたまですよ」
軽くそう返しながらも、自分以上に真面目で一番尊敬出来る先輩が前の席へ鞄を置くのを見て自然とこぼれる笑み。
「今日は月末の書類整理でデータ入力の量が半端ないらしいから、覚悟しとけよ〜」
「うっげ……自分手が遅いので頑張ります……」
そう呟いたはいいものの、実際業務が始まったと同時に押し寄せたのは物凄い仕事量。正直午前中だけで息が詰まった。
その挙げ句なぜか午後から、ここ2週間は静かだった研究者様たちの書類ラッシュまで重なって混乱状態。さすがに期日が相当迫っているもの以外は全て断ったけれど、これはキツい。
「大丈夫か上月……」
「ああ……まあなんとか大丈夫だよ。あと3時間もあれば終わるって」
軽く笑って同僚にそう返したものの、今はもう夜の10時。今日は忙し過ぎて時間の流れがとてつもなく早く感じる。
動かし続けていた指先と目は、言葉にはしないだけで悲鳴を上げていた。
「研究者様の書類だけでも何個か引き受けるぜ?」
「優しいなあ……けど、俺が受け取ったんだしお前に迷惑は掛けられねえよ。ありがとう。その気遣いだけで充実だ」
「……ぶっ倒れんなよ?」
「あいにく、俺は体力には自信があるから安心してくれ」
この前と同じような残業。だけど今回は休日明けでまだ疲労が少ないから、こうやって笑える余裕すらある。集中力さえ切れなければなんとか疲れ果てる前に終われそうだ。
こんな空気を察してくれたのか、また最後に労いの言葉を掛けてくれた同僚を見送って、また一人残された事務局で書類やパソコンと向き合った。
「……えーっと」
自分の仕事のやり方は効率が悪いとよく言われる。だから毎日遅くなるんだと。今の時代はもう残業なんて美徳じゃない。いかに短い時間で大きな仕事量をこなせるか。それを分かっていても効率より一生懸命作業をすることの方についつい片寄ってしまうから、俺はただの根性馬鹿や無能と言われるんだろう。
散々言われ慣れている嫌味や小言の残響を頭で聞いていれば、ついこの間聞いたばかりにも感じる、あの間延びした声が窓口から響いた。
「あーらま。週明け早々もう残業? 熱心だこと」
まるで当たり前のように窓口へ佇む人は毎回同じ姿勢。窓口のカウンターへ背中を丸めて、頬杖をついている。
「前河さん……お疲れさまです」
あの微笑みは魅力的だけれど、今日ばかりは残った仕事が多すぎて時間が惜しい。
深い夜の藍色に馴染むような人は、その色素の薄い瞳に俺を映しては数度まばたきをしてから、更に笑みを深くした。
「すごい量だねえ。大丈夫?」
窓口からでもどうやらこの積み上げられたファイルは見えるらしい。はははと苦笑いをこぼして返すことしかできない。
「まあ、仕事ですから……」
「ねえ、俺もそっちに入れないかな」
「えっ……?」
マスクでこもった声で囁かれた突然の提案に、思わず眉間にシワを寄せてしまう。それを直ぐ様解きほぐすような声が、この静寂を埋め尽くした。
「一回事務局の中に入ってみたかったんだよねー。ね、なにも悪いことなんてしやしないから。お願い」
困った。いくら前河さんがここに勤めている研究者とはいえ、事務局の中には様々な書類が色んな場所に保管されている。まあそのほとんどに鍵が掛かっているとはいえ、この職場ではまだまだ新米の自分が、そう簡単に外の人を中へ招き入れるような真似は出来ない。
その困惑ぶりが見事に伝わってしまったのだろう、笑顔のまま頭を掻いた人がカウンターに頬杖をつき直す。
「無理ならこれ以上のワガママは言わないよ。困らせてごめんね」
会話の引き際を心得ているような、大人の余裕を感じさせる仕草。白衣を纏っていないということは、もう帰ってしまう前なのだろう。
「いえ、こちらこそすみません。前河さん、もうお帰りなんじゃないですか? 俺なんかに付き合ってたら日付を跨いじゃいますよ」
「そんなに仕事残ってるんだ。なに? 手伝おうか? 同業者が押し付けたような提出書類のチェックくらいなら出来るけど」
さりげなく、ふわりと帰宅を促したつもりが、とんでもない返しが淡々と来て慌てて両手と首を振った。
「いやいやっ! 前河さんにそんなことはさせられません!」
「そんなこと言って、じゃあアンタは何時に帰るつもりよ。大人しく書類を寄越しなさい。体壊すよ、ほら」
窓口の隙間からこちらに伸ばされた腕が、暗に書類を寄越せと命じている。
それは、手伝ってくれるという心遣いは嬉しい。だけどこの人のやるべきことは、書類のチェックなんかじゃない。
「駄目です、これで無理をさせて前河さんの研究に影響が出たらどうするんですか。あなたは事務職員じゃなくて、羽賀さんの所の研究者なんですよ。俺なんかよりも、自分の体を気遣ってください」
コレを手伝わせて、万が一羽賀さんの研究が滞るようなことがあれば、俺、イヤですから。
一気にそこまで言い終えて、はっと我に返る。しまった。自分はただこの人の休息を優先して欲しいと言いたかったのに、さっきのような言い方では全くニュアンスが違って聞こえてしまったかもしれない。
「……あの」
「ふうん……そう。羽賀羽賀って、アンタ好きね。あんな人間最低じゃなかったの? 羽賀の研究に比べたら、俺なんてどーでもいっか?」
色々誤解を解きたいのに、渇いた喉へ空気が張り付いて、うまく話せない。
「いや、えっと……」
「ごめんねー要領が悪くて。俺みたいな二流が居るから羽賀の研究が進まないんだよねえ。クズはツラいよ」
「ち、違っ……」
どうしてこんな時にまで、この人は目元に笑みを浮かべていられるのだろうか。いや、笑っているように見えるだけ。その内側はなにもかも笑っていない。
怒っているんだ。
いくら鈍い俺でも、手に取るように分かった。
「羽賀の所の研究者じゃない俺って、そんなに魅力がないかな。人間として価値が下がる? そういう目で俺を見てたの? ま、それもそうか。内面で判断されるほどの仲じゃないもんねえ」
違う。俺はただ純粋に、あなたの体調を気に掛けただけだ。
こんな、なんの取り柄もない凡人とは違う優れたあなたに、今以上の負荷を与えたくなかった。毎晩残っているのは俺じゃない。あなたの方だ。内容だって心労を伴うものだろう。
たくさんの人から望まれ、必要とされている羽賀さんを支えながら研究室で共に日々試行錯誤している、本当は一番ツラい立場に居るであろう前河さんにこれ以上ムダな労働はさせたくなかった。
そう告げたいのに、目の前のひとの威圧感に飲まれて、なにも言葉に出来ない。
ひとつ、選ぶ言葉を間違えるだけで、まさかここまで深刻な事態になるとは思ってもみなかった。
どうしよう、どうしよう。どうしよう。ばくばくと跳ね上がる鼓動に汗も吹き出して、今にも取り乱してしまいそうな俺を置いて、氷のように冷たい言葉は続く。
「こーんな雑談してる暇があるなら、寝る間も惜しんで羽賀の研究室で羽賀のために研究でもやってろって感じ?」
居たたまれない。こんなの、全く本意じゃないのに。本当にどうしよう。
「あーやだやだ、もしかして今までもそういうニュアンス出したりしてた? ごめんねえ、全く気付かなかった。ほら、俺、バカだからさ」
突き刺さる言葉の刃が、心拍数を上げる胸を大きくえぐっていく。
ダメだ、もう、耐えられない。
「……すみませんでした!」
今まで張り付けられたように座っていた椅子から勢いよく立ち上がって、その場ですぐに膝と両手を冷えた床に乗せて、額もつけた。
「違うんです……! 羽賀さんは関係ないんです! 俺、ただ前河さんが心配で……っ! 言葉が足らなくて変な意味に聞こえてしまったようで、でも俺は純粋に、毎晩こんな時間まで研究をされているあなたの体調が心配で仕方なかっただけなんです……!」
顔を上げられない。この沈黙が、ただひたすらに怖いから。
「羽賀さんの研究室だからとか、全然関係ないです……! あなたは人間として素敵です! 尊敬できます!」
嫌われたくなかった。こんな、こんなことで。
「俺、口下手だし馬鹿だし失礼な人は嫌いとか言っときながら自分がめちゃくちゃ失礼だし……! クソ野郎ですみません!」
ずっと下を向いているうえに大声を出しているせいか、頭に血がのぼってきて息苦しさと熱が顔に集まる。
それにとうとう耐えられなくなって、肩で息をしながら思いきって顔を上げてみれば、窓口に居る人は体勢は変えないまま、ただこっちの気が逆に抜けてしまいそうなほどぽかんとした目で、軽く呟いた。
「うわー、俺生の土下座って初めて見た……すんごい迫力。ちょっと感動しちゃった……」
「……は、はあ?」
てっきりあの冷たい眼差しがまた突き刺さって、もう関わらないからと捨て台詞まで貰うことも覚悟していたのに、あまりに場違いにも感じる台詞に間抜けな声を出してしまった。
「えっ、っていうか、冗談冗談。別に怒ってないから、いや、ホント。ほらもう立ってください。ちょっとからかいたくなっただけなんです」
「……から、かう……?」
「もしかしなくとも本気にしちゃいました? ごーめんねー」
からかう? アレはからかうなんてレベルのものだっただろうか。
もしかしてこんな空気を持ち直すために、仕方なくさっきの本音を冗談として流そうとしているのではないのだろうか。あり得る。何を考えているかわからないような人だから、余計に。
「ほらほら、早く仕事しないと帰れないよ。余計な時間使わせちゃって悪かったね。ホント、手伝わせて。罪滅ぼしと仲直りの印としてさ」
本心が全くわからない。だけど、嫌われてはいないのだろうか。
「……でも」
「いーから。ね? お願い」
あんな風になじられた矢先、本当に信じていいのか分からない。だけど急かされるがまま恐る恐る書類の束を持って近寄れば、ずっと変わらず微笑む目元が映った。
「お、怒ってらっしゃらないんですか……?」
「うん、全然。なんで?」
「な、なんでって……」
「俺のジョーダンってどーも人に理解されないみたいなんですよねえ。やっぱり怖かったですか?」
確かにアレを冗談と呼ぶのなら、かなり自分の基準を変更しなくてはいけない。
それにあれだけ言葉で攻撃された後だ。そうすぐにこの恐怖心が消え去る訳じゃなかった。
「こ、怖いというか……こちらが申し訳なかったというか……」
「んー。どうやら萎縮させてしまったようで。こちらこそすみません。じゃ、お詫びにその資料くださいな」
窓口の隙間から差し込まれた腕が資料へと向けられて、長く骨張った人差し指も紙の束を求めるように動く。
「俺、そういう資料は書き慣れてるからさ。きっとすぐにチェック済ませられますよ」
「はあ……」
どうやらどれだけ断っても、引き下がってくれそうにない空気にますます身を縮めて、大人しく資料を引き渡す。
窓口の分厚い硝子板を挟んでいることだけが、この人との距離を物理的に遮断してくれる唯一の救いだと思えた。
「……俺が怖い? ごめんね。もうあんな冗談言わないし、からかわないから」
思想や住む世界が全く異なっていることが魅力的なのに、一度分からなくなってしまうと何もかもを見失う。
「……だからそんな顔しないでよ。ね、仲直りの握手しましょう」
ゆっくりと資料を反対側の手に持ち変えた人が、再び空いた左手を窓口の隙間から差し込んだ。
「……本当に、怒ってないんですか?」
「うん、全然怒ってない」
「俺……心臓が止まるかと思いました……」
「だろうね、そういう顔してた」
「もうっ……でも、失礼なこと言ってすみませんでした」
あれだけ吹き出していた冷や汗がようやく引き始めた時、ゆっくりとその手を握る。
そして体温が低くて冷たい指先が俺の手を握り返した時、ようやくまともに前河さんの目を見ることが出来て、抜けていく力。
「はーい、これで二人はなーっかなーおり。また飲みに行きましょうね。行ってくれますよね? 愚痴聞いてくれるんですよね? ねっ?」
「……こ、子どもみたいな言い方ですね……構いませんよ、勿論」
「やーったー!」
一体なにがそんなに嬉しいのか、今にも踊り出しそうな笑みではしゃぐ姿を見て、さっきまでの冷酷な眼差しとの落差の激しさに困惑の苦笑いがこぼれ落ちる。
「……今居る場所から左に行って、細い廊下を右に曲がってください」
「えっ?」
いくら気まずい雰囲気でも、さすがになにもない場所で、立ちっぱなしのまま目上の方に本来自分の仕事である資料をチェックしてもらうほどの根性はない。
「事務局、入りたいんですよね?」
「えっ、ああうん……でも、いいんですか? 俺が入って」
「ええ。その代わり、あまりなにも触らせてあげることは出来ませんよ……。机と椅子だけ、お貸しします」
頭を掻きながら入り口の場所を指差せば、また花でも飛びそうな勢いで頷いた人も俺と同じように頭を掻いた。
「嬉しいです嬉しいです、すごく助かりますそれ」
そう言いながら事務局の入り口を目指して歩き出した背中を窓口越しに見送って、軽く息をつく。
頭のよすぎる研究者様たちの思考回路は、どうやら一般人の自分とはだいぶかけ離れているらしい。今思い出しただけでも背筋が凍るような出来事を『冗談』だと軽く笑った辺り、さっきのことは無理やりにでも水に流すしかなかった。
「うわーっ、憧れの事務局!」
数分も経たない内に出入口の方へやってきた足音。
俺しか居ない空間で、わざわざ丁寧なノックの音のあとに入ってきた人は、まるで幼い子のように眩しい瞳でゆっくりと辺りを見渡しながら歩いてくる。
「あ、憧れって……。あっ前河さんこっちです、俺の席使ってください」
「えっ! 上月さんの席使っていいんですか!?」
当たり前のことを呟いただけなのに、何故か物凄い反応が返ってくることに驚いて首をかしげた。
「はい。他の人の席は流石に勝手には使わせられないですよ……」
「じゃあ、上月さんはどこで?」
「俺はこっちで作業しますから、お気になさらず」
「えっ!? っていうかそこ地面じゃないですか!」
分厚い資料とパソコンを抱えてすぐ脇に胡座をかいて座り込んだことがそんなに衝撃的だったのか、ピシリと固まってしまった人ににっこりと微笑みかけた。
「ええ。パソコンに入力するだけなので、こっちでも大丈夫なんです。資料チェックはなにかと紙に書き込む作業もありますから」
それだけ告げて早速離れていた仕事へと意識を集中させれば、ようやく前河さんも大人しく資料へと手を掛ける音が響いてきて、淡々と動かす指先。隣では乾いた紙をめくる音。
今日もらったチェック書類は5部。自分が見たら2時間もあれば終わるだろうけど、いくら書き慣れているとはいえ前河さんはチェック側に回るのは初めて。最低でも作業には3時間は掛かると見積もっていい。適当な時間で切り上げさせなければ。
そんなことを考えながら数字を打ち込んでは、ただひたすらコツコツと仕事を進める。
刻々と進む秒針が真夜中に浸透して、この静寂をただ無機質に突き抜けていく。
「んーっ」
不意にギシッと椅子の背もたれを軋めた人の方を見上げれば、大きく延びをしていた。
時計を確認してみればあれから30分。慣れないことさせて神経をすり減らせてしまったかもしれない。
「肩が凝るでしょう。大丈夫ですか? チェックなら途中まででも全然構いませんから」
それを聞いた人は悠長に首を回してから立ち上がって、またにっこりと笑った。
「ああ、いやいや大丈夫。もう終わったよ」
全く予期していないタイミングで聞こえてきたその台詞に、思わず数字を打っていた手を止めた。
「……えっ?」
今、この人はなんと言った?
「ほら、だからそんな冷たい床に座ってないで、上月さんこっち使いなよ」
頭が真っ白になっている間に、どんどん書類やパソコンを机に戻していく動作を腕を掴んで止めた。
「ち、ち、ちょっと待ってください……! あなた、終わったって言いますけど……!」
「え、うん、だからチェックだよね? 終わったけど」
「そんな訳……っ」
慌てて胡座をかいていた腰を上げ、端に避けられた書類をめくる。
パラパラと中身を確認すれば、面白いくらい細かな訂正と適切なチェックが入れられていた。
「なによ、俺の仕事が信用出来ない? 言ったじゃないですか、こういうのは書き慣れてるって。だから間違いやすいところも分かるんですよ」
自然と眉間に寄ったシワもそのままに、改めて隣を見上げる。
「30分ですよ?」
「ん?」
「俺、2時間掛かるのに……」
そうこぼしてしまった瞬間、自分で更に墓穴を掘ったことに気付いて片手で口を覆う。
「あ、ああ。まあ、ほら……慣れてないとそれくらい掛かるよねー。分かる分かる……」
それは本来、こっちが言うべきはずの台詞だった。
「ね、何はともあれとりあえずこっちは終わった事だし、あとはコレやっちゃいましょう」
無能な俺をなんとか慰めて話を先へ進めようとしてくれる優しさがますます痛い。
「……はい」
さっきまで座っていた人の温もりが残る椅子に腰掛ければ、隣の席から椅子だけを引っ張ってきた前河さんが背もたれの方を前にして跨ぐように腰掛けて、すぐ傍までやってきた。
「上月さんが仕事してる所、見ててもいいですか?」
「は、はあ。別になにもないですよ……」
たまに思うけれど、変なことを言う人だ。俺なんか見ていたって仕方ないだろうに。
「俺適当に喋ってますけど、そのまま無視して仕事してくれていいですからね」
「いや、それは流石に……」
それにしても、なんて恐ろしい人なんだ。研究者ってみんなこんなに頭がよくて要領もいいのか? 全く羨まし過ぎて言葉も出ない。
軽く頭を振りながら再び意識をノートパソコンの画面へと向けようとした時、また隣からギシリと体重をかけた椅子の背もたれが鳴る音。
「……あれ? 上月さん、キーボード叩く指の位置、変わってますねえ」
「えっ? そうですか?」
本当に不思議そうに言うから、思わず作業へと移行しかけていた意識が途切れて、手元へと視線を向ける。
「あー、そういえば指を置く位置ってあるんですよね。あんまり気にしてなかったなあ」
「なら俺が教えましょうか。今のより、こっちの方が絶対に作業も早くなりますよ」
返事をする前にはもう椅子から立ち上がった人が真後ろへとやってきて、まるで背後から抱き込むように覆い被さってきた。
「まず、右手の小指はここ。薬指はここ」
俺の手の上から更に重ねられた掌が丁寧に位置を示しながら、本来の定位置であるのであろう場所へ指を導いていく。
相変わらず冷たい手。ひんやりしていて、高体温な自分には心地よさすら感じられる。
「っとまあ、これが俺のいつも指置いてる場所なんですけど。じゃあ早速これで、資料の方を打ち込んで行きますか」
そうやって導かれるがまま紙束を引き寄せた前河さんは、淡々と優しく、耳元で囁くように話す。
「実はさっき、書類チェックしながらチラッと上月さんの仕事のやり方を見させてもらってたんですけど、ちょーっとだけアドバイスしてもいい?」
「えっ、はい、是非」
ずっと効率が悪く遅いと言われ続けながらも、変えようとしてこなかった自分のやり方。せっかくこんな賢い人にキーボードに乗せる指の位置も教えてもらっているんだから、これを機に本気で取り組み方を変えてしまおうか。
そう気持ちを切り替えて、いよいよ真剣に後ろの声へ耳を傾ける。
「ありがとう。んっとね、アンタいつも初めここから打つでしょ。それよりもこっちから始めて、次にこうした方がいい」
始まった話を聞きながらしみじみと思ったけれど、この人は教え方がとっても上手だ。
「何でかって言うと、ここをしてから無理にこっちへ行こうとすると、どうしても手の動きが大きくなるから、疲れちゃう訳よ。よく指が痛くならない?」
「ああ、なりますなります」
「でしょう? だから負担を減らして、なおかつ時間を短縮しようと思ったらこっちのがいいと思う訳」
原因と理由を的確に述べて、俺が完全に理解するまで根気よく補足をしてくれる。更にそれから指の位置に慣れるまで、ずっと添え続けてくれる手。
確かに教えられる前と後とでは、格段に作業のスピードが違っている。
「えっ、もうこんなに進みました!?」
「うん、あともう半分以下だよ。上月さんは飲み込みが早いですねえー」
「いやいや! 教える人が良いからですよ!」
どうして事務ではないこの人が、こんなテクニック的なことを知っているのだろうか。なにをどう思考を巡らせていれば、こんなに効率的な考え方が出来るのだろうか。興奮せずにはいられない。
「いやあやっぱり、少し変えただけで全然違うんですね! あともう少し、これで頑張ります!」
そう言って後ろを振り返れば、案外すぐ近くにあった顔のせいか白いマスクに鼻先と唇が少し触れて、驚きながら横へ仰け反った。
「うわっ。あ、すみません……」
「ん? ああ、いえいえ。んじゃあまあ、ちゃちゃっとやっちゃいましょうか」
マスク越しとはいえ思わず少し触れてしまった顔に、気持ち悪いという表情をされると思ったけれど、前河さんはさして気にもしていないようで、それに安心しながら自分もまたすぐ前を向き直して作業に没頭する。
重ねられた手は、いつの間にか離されていた。
それからまた更に時計の針は進んで、ますます夜の闇が深みを増していく深夜。凝った首を休めるように、上体全てを後ろの背もたれに預けて体重を掛けた。
「……んーっ、よっしゃー! 終わったあー!」
下手をすれば明け方まで掛かるかと思っていた仕事も、なんとか早くに終わった。まあそれでも、少し日付を跨いでしまったけれど。
「いやあ、お疲れ様でした」
「あっいえ、すみませんこんな時間まで前河さんをお付き合いさせてしまって……!」
「いーのいーの。好きでやってんだし。それに、今日は上月さんに悪いことしちゃったからさ……」
そこまで囁いたかと思えば今まで浮かべていた笑みを消して、どこか不安そうな眼差しをした人がこっちの様子を窺うように視線を向けてきた。
それはまるで、悪戯をしたあと後悔をして親から叱られることを恐れている子どものような表情。
「俺、悪気はなかったんですよ……本当に」
しゅんと背中を丸めながら、椅子の背もたれの上に乗せた両腕に顔を埋めてうじうじとする人は、濡れた子犬のよう。それを見て、数時間前のことを改めて思い出す。
もしかして、これだけ親切に仕事のことを指摘や指導してくれたのは、この人なりの罪滅ぼしだったのだろうか。
あれを悪気がないと言ってのける所は相変わらずよくわからないけれど、どうやら前河さんは怒ってもいないし、俺を嫌いになってもいない。それならばなんでもよかった。
「構いませんよ、俺も言葉足らずでしたから」
「……本当に? 怒ってない? 俺のこと嫌いじゃない?」
「そりゃあびっくりはしましたけど……怒っても嫌ってもないです。ただ、ああいうからかい方はもうやめてください。俺頭が固いから、あれが冗談だって気づけないです」
そう言って素直に苦笑いをすれば、未だに不安気な顔をする人がゆっくりと立ち上がった。
「うん、もうしない。ごめんね。俺の体を心配してくれたんだよね、なのにあんなことさせてさ……」
その動作に促されるようにノートパソコンの電源を切って、自分も荷物を纏め始めた。全て終わった安堵感からか、今になって少し眠気が出始めている。
「いえいえ、そんなに落ち込んだ声出さないでくださいよ。今日は色々教えて貰って大助かりでした。だから笑ってください。前河さんが笑ってる顔、俺結構好きなんです」
ぼやける頭をなんとか覚ましながらそう呟いて、全てを詰め終わった後肩へ鞄を掛けた時、もう入り口の近くへ立っていた人が真っ直ぐこっちを見据えていた。
闇に溶け込むような、それでいて凛とした存在感も放つ不思議な瞳。綺麗な二重。少ししか露出していない顔の肌。
かなり距離を挟んでいるはずなのに、無表情な目元が綺麗に弧を描く瞬間を見届けた時、うっかり『素顔が見たい』と言いそうになって、唾を飲み込む。
自分から見せなくてもいいと言ってしまった矢先、死んでもこんなことを口走ってはいけない。大事なのは信頼関係。この人とは長く友人としてお付き合いを続けていきたい。
「ありがとう。俺も上月さんの笑った顔が好きですよ」
前河さんから与えられた好意を伝える優しい声にただゆっくりと微笑んで、鍵の束を取る。
「送って行きます」
「ありがとうございます……毎回すみません」
「いえいえ」
なんだか車で送ってもらうというのが恒例のようになっている気がする。いつかタイミングを見計らって、ガソリン代と同じくらいの食事をご馳走しなければ。
そう心に決めていつもも通り警備員室に鍵を返却してから外へ出ては、もう見慣れつつもある車へとそれでも遠慮を拭い去ることなく乗り込んだ。
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