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[常人には程遠い奇人]
前河敦








 玄関から音がした。

「……!?」

 夜中の1時30分。完全にベッドで微睡んでいた頭へ危険を知らせるようなその音に、慌てて起こした上半身。

 なんだ。なんなんだ。

 なにも着ていなかった上半身をその辺にあったシャツで覆って、足音を立てないように玄関まで向かいドアスコープを覗き込む。

 その瞬間、自分でも呆れるほど大きなため息が出た。

「……はあっ、なんなんだよこんな時間に……」

 すっかり力が抜けた体で施錠を外せば、また暗鬱感を漂わせたマスクの男がフラリと隙間から玄関へ体をねじ込んだと同時に靴を脱ぐ。

「……おい、今を何時だと思ってんだ……テメェにゃ常識ってモンがないのか」

 当たり前のように消していた電気をつけて畳へ座り込んだ背中へ一発蹴りでも見舞ってやろうかとも思ったが、そんなことをすれば後が面倒だと結局居間に戻って普通に胡座をかいた。

「……た」
「はあ?」

 両手で顔を覆って項垂れる口から発される言葉がマスクの中で籠って、なにも聞き取れない。それを示唆するように耳に片手を当てれば、憔悴し切った声音が微かに響く。

「……土下座、させちゃった」
「土下座ぁ? またかよ」
「からかってただけなのに……やり過ぎた……」
「お前そういうところだけは全く学習しねえなあ」

 本人はからかっているつもりでも、端から見れば感情もなにも見えやしない冷淡な話し方。人を無意識に追い詰める言葉遣いで土下座をさせているなんて研究室の中で何度でも見てきた。もはや羽賀の研究室じゃ日常茶飯事、新しいのが来た時にはいい歳の大人を号泣させるのだって恒例行事。

 だがそれを、コイツが人一倍好いているらしい事務君にしたとなればそれは確かにマズイ。きっと萎縮してろくに話せなくなるだろう。実際そうやって羽賀は誰も近付けない空気を常に保っている。

「好きな奴を土下座させるかあ? 普通よお。ああ、そういやお前は普通じゃなかったな」
「うるっさいねえ、余計なお世話だよ。……もうさ、あの人の『あっ、しまった』って焦る顔が可愛くてさー。もっと見てみたいなあと思ったら口が勝手に……」
「サイアクな野郎だな。んで、どうやって誤魔化したんだ?」

 微睡んでいた意識なんてとうにこの胡散臭い野郎に掻き消されて、煙草に一本火をつける。

「土下座なんて生で初めて見たよー……冗談だから顔上げてくださいってさ、ハハ……」
「かーっ、よく言うぜ。今まで散々人に土下座させてきた分際で。こりゃ嫌われたな、御愁傷さん」

 ここぞとばかりに追い込んでやれば、文字通り今にも泣きそうな情けない目で机に俯せる男ににんまりと上がる口角。

「でも、でも頑張ってその後は挽回して、あの人の仕事手伝ったし効率いい作業方法教えたし、許してくれるって言ってたし俺の笑顔が結構好きって言ってくれたし車にも乗ってくれたし笑ってたし電話番号も交換してくれたし……ギリギリセーフ、の筈」

 面白い。恋話なんて似合いもしない男がこんなにも相手に振り回され、疲れ果てているとは。ただその相手がむさ苦しい男だと思えば笑えない。

「もう俺あの人に殺されちゃいそう……すんげーいい匂いだったなあ。あの人らしい体臭が……思わずマスク取りそうになっちゃった」
「おえっ、やめろ気色悪い」
「体温も高かったなあ。あのままぎゅーって抱き締めてどうにかしちゃいそうだったよホント……」
「うぅう寒いぼが……」

 うっかりいい雰囲気になっている男同士の絵面を思い浮かべて、ブルブルと肩が震えた。

「んで、バラす見通しは立ったのか?」
「……それについては聞かないでちょーだい」
「まだ掴めてないって訳か」
「誰のせいだと思ってんのよ。お前のせいで羽賀の印象サイアクなんだから。あの人の過去を知るのも不愉快だってさ……それ聞いて顔が引きつったっつーの」

 それにこっちまで居心地が悪くなって、まだ吸えた筈の煙草を揉み消す。

「俺はそんっなに印象が悪かったのか?」
「そーみたいね。ま、あの人は真面目と熱血が服着て歩いてるようなモンだから」
「あー面倒くせえ」
「どっちがよ」

 鋭い眼差しの後にははあぁーと気色悪いため息をついて床で転がり始める様は、もはや奇妙きてれつとしか言いようがない。

「……ああもうダメ、これが恋ってやつかあ……苦しーい」

 人の家へ深夜に転がり込み、胸を押さえながら切な気に囁く姿があまりに不可解で、無意識に眉間へシワが寄った。

「お前はなんでそう一々言うことが寒いんだ……頭イカれてるぞ……」
「でしょーね」

 体の奥から痒くなる。もう30にもなる男が発するにはあまりにウブな台詞が、この気持ち悪さを増幅させているのは間違いなかった。

「相手は男なんだぞ……? もっと冷静に、客観的に考えてみろよ。いつもみてえによお」
「客観的に考えたくても考えられないのが恋ってヤツじゃないのよ」
「なあにを偉そうに。恋を語るにゃあまだまだ早いぜ」
「そういうお前は何様な訳?」
「そうだな、とりあえず恋愛アドバイザーとでも呼んでもらおうか」

 それを聞いて不意に転げ回っていた体をピタリと止めて、肘をつき頭を支えた男が不機嫌面でこっちを見据える。

「冗談。俺の話には相づちしか打てないような奴がよく言えたモンだね」
「踏み込みたくもねえからな。だがまあ、お前よりも恋愛経験は豊富だぜ……っておい。お前まさか俺ん家で寝るつもりか」

 うっすら目を瞑った所で嫌な予感はしていたものの、そう言うや否や器用な体勢のままうつらうつらし始めた羽賀に改めてため息をついた。

「もう風呂は入ってきたし帰んの面倒だし。とりあえず仮眠だけさせてもらうわ、お言葉に甘えて」

 院生時代には俺に全く寄り付きもしなかったくせに、ここ最近で一気に話し込むようになった。やっぱり恋というやつは、どんなに冷淡なヤツにでも人間らしい心を与えてしまうのだろうか。
 惚れたのが男でさえなければ、手放しで喜んでもっとまともな助言をしてやれたというのに。

「なにがお言葉に甘えてだ……ったく」

 どこまでも現実的で論理的な研究者のくせに、理由もなく非現実な恋に突然落ちた。全く理解できない

 いいや、そもそも俺みたいな凡人には最初からコイツの頭の中なんて分かりっこないんだろう。

 ならばただひたすら、不幸なことが起きないよう祈って、見守るしかない。

 優秀な研究者だ。せめて羽賀郡司という人間が下らないゴシップでこの世界から去るようなことだけは避けなければならない。

 だとすればコイツには悪いが、出来れば片思いのまま、ずっとこの状態が続いてほしいと願う。
 関係が進展するときっと話がややこしいことになってくる。それは困るんだ。

「…………」

 そこまで考えて、最後には結局コイツが人間として幸せになることよりも、いつまでも偉大で孤独な研究者であって欲しいと願っている自分のエゴに気付いて、全ての感覚を遮断した。

 旧友面をしておいて、全くとんだ薄情者。

「チッ……あーあ、くだらねえ。寝るか」

 そんな自分が嫌になって、素早く目の前にぶら下がった紐を引いて明かりを消す。

「おい、これだけでも掛けとけ」

 乱雑に投げた薄い毛布。

「……はあっ、畜生」

 結局気付いてしまった苦い考えに胸がつっかえたまま、自分の性格の悪さを誤魔化すように羽賀から背中を向けて、無理やりまぶたを閉じた。






 暗闇を浮遊するようにさ迷い、無意識の波に浮かべられている時間。

「おい、んじゃ、俺もう行くから」

 そんな言葉と一緒に突然、息が詰まるほど強い力で背中を蹴られて、ハッと意識を覚醒させた。

「うおっ……!? 痛えんだよ朝から、勘弁しろ。まだ5時じゃねえか……」

 3時間しか寝れちゃいねえ。そう一人ごちて再び布団を頭まで被れば、「あっそ、んじゃまあおやすみ」と背後で呟いた男が玄関まで進み、そのまま鍵を開けて出ていく音を聞いて流石に上体を起こす。

「おいおいマジかよ……」

 毎朝早い時間から居るとは思ってはいたが、まさかこんなに早朝から研究所に?
 いや、今から家に戻って支度というのもあり得る。このまま出社する方がどうかしてるだろう。だがアイツは奇人。何をしていてもおかしくはない。

「ま、どうでもいいか……」

 未だに引きずる眠気のままにそう呟けば本当にどうでもよくなってきて、また横になっては目を閉じる。
 そこから眠りに落ちるのは、意図も容易いことだった。









「おはようさん」
「ああ、前河さん。おはようございます」

 結局いつも通りの、慣れた時間。白衣とマスクをつけて研究室の扉を開けながら、他の仲間に向かって挨拶代わりに軽く手を上げる。

「羽賀は?」
「もういらしてますよ。でも朝から奥の部屋でずっと論文書いてて、ピリピリしてます」
「そうか、迂闊に近寄れねえな。ま、それはいつものことか!はははっ!」

 こうして羽賀の顔色を窺うことが日常となっている仲間に、なんとか少しでも萎縮せず研究をしてもらおうと軽口を叩いて空気を和らげていく。これもまた自分の日常。
 事務君のご機嫌窺いにはあれだけビクビクしているくせに、あの男はこういう身近な人間に対しての配慮は全くと言っていいほどしなかった。

「んで、昨日の結果はどうだった?」
「ええ、5番目の細胞は思いの外順調です。ただ、羽賀さんの予測とは少し違った結果も出ていましたが。今研究ノートにまとめてます」
「あとで羽賀にも見せてやれ」
「もちろん」

 計画書に沿って淡々と進む研究。地道な作業と観察の繰り返し。小さなことに一喜一憂し、追い求めては突き放される。

「おう羽賀、後でノート見てやれよ。お前の予測と違った結果が出たんだと」
「…………」

 不意に奥から紙を脇に抱えて背中を丸めながら出てきた男。その纏う雰囲気があまりに刺々しくて、ため息をつきながら話し掛けても素通りされる。

「……なんだありゃあ。こりゃ相当機嫌が悪いな」
「でしょう……? 俺もう怖くて……」
「なあに、お前が気にする事じゃねえ。さ、仕事しようぜ」

 論文を書くのに羽賀が神経を削るのは昔から変わらない。なんせ完璧を追及する男だ。どれだけ些細な書類も絵に書いたような完成度で提出する。
 研究だけしていたい。こんな面倒な論文はお前が書けと愚痴をこぼしていても、作業を始めてしまえば妥協なんて一切しない。

「……にしても、珍しいですね」
「あ? なにが」

 時計の短針が9時を指している。さっきまで出勤する足音が響いていた廊下も、ちょうど静まり返った頃。

「羽賀さん、日中は滅多に研究室から出ないのに」

 それを聞いて、言われてみればそれもそうだなと後ろを振り返った。
 朝は誰よりも早くこの場所に居て、帰るのも遅い。その癖全く研究室からは出ず、飯も人目につく場所では食わない。そんなアイツが便所以外でこんな時間から出るのは確かに珍しい事だった。

「……アイツだけは、俺もなに考えてるかわかんねえよ」

 そう言って軽く肩をすくめてみれば、また更に和らいだ空気。

「よーっし、もう一踏ん張りするか」
「はい」

 パチンと顔の前で手を叩いてその空気を切り替えた刹那、無機質な機械に囲まれた部屋に、一瞬にして緊張感が漂い始めた。







 集中していれば恐ろしいほど早く過ぎていく時間。研究チームの仲間たちと狭い部屋で昼飯をつついていれば、急になにかを思い出したような顔をした新人が、声を潜めて話し始めた。

「そういえば、気付いてます?」
「ん? なにを」
「最近、やたらマスクしてる研究者が増えたって」

 その言いぐさに、内心またかよとため息をつきつつ、細やかな楽しみだと言わんばかりの肩を寄せ会う密談に苦笑した。

「羽賀さんがずっとマスクしてるって噂が流れてから、一気に広まったらしいですよ……」
「あわよくば自分が羽賀さんだって間違えられたい奴らがやってんだろ? 笑っちまうよなあ」


 そう言っているコイツだって、羽賀に憧れを抱いているのは端から見ても露骨に分かるほどで、一緒のチームになれた時泣きながら喜んでたヤツがよく言うぜと肩だけ揺らす。


「でもでも、マスク着けてるだけで、事務局の女の子からモテるらしいですよ」
「なにっマジか!?」

 全くくだらない。くだらないが面白い。

「羽賀さんの素顔ってどんななんでしょうね……前河さんも見たことないんですよね?」
「ああ、ねえよ」
「格好いいのかな……いや、でも隠すくらいだからな……」
「けどあれだけ天才でその上男前だったら、あまりに不公平だろ」

 奇人だと知られた上で、それを覆うほどの羨望や期待を浴びせられる男。
 それが今同じ男に熱烈な恋をしているなんて知られたら、それでも外野ではしゃぐだけの他人たちは、変わらず同じような態度でいられるだろうか。

「院生時代モテてたって言うし、そりゃあ男前なんじゃないか?」
「いや、羽賀さんの逸材とか天才って肩書きに引っ掛かっただけかもしれないぜ」
「くーっ、俺も一回でいいから天才って呼ばれてみてえー!」

 至極賑やかな狭い談話室兼更衣室に、気配を消したまま静かに扉を開いた男の姿が視界に映る。

「よう羽賀」

 その瞬間一気に静まり返った室内を誤魔化すように、前を見たまま斜め後ろの男へ声を掛ければ、軽く返事をして隣の研究室へと消えていった背中をそのまま見詰めた。

「び、びっくりしたあ……」
「や、やっぱりこんな場所で迂闊に噂話なんかするもんじゃないな……」

 さっきまでの空気がまるで嘘のように急にかしこまって萎縮する奴らに、そうだぞと笑って立ち上がる。

 朝に比べれば幾分か機嫌が良くなっていた横顔。あれはきっと事務局を覗きに行っていたに違いない。
人に姿を見られることを極端に嫌うアイツの性格上、窓口から話し掛けた可能性は低いだろうが、遠巻きには見詰めていた筈。

「どこの乙女だってんだ……。おお寒っ……」

 それを想像してまた鳥肌が立った肌を服の上から擦りながら、それでもそんなことでアイツの不機嫌が少しでもマシになるなら構わないかと息をついた。

「おーい、マキノー」
「!? は、はいっ今行きます!」

 内側から羽賀が呼んだ名前は、今朝研究ノートを必死で書いていた新人。呼ばれた本人はビクリと肩を跳ね上げて、慌ててお茶を飲み干してから奥へと消えていった。

「……ふう」

 その背中をぼんやりと見送りながら、腕を組む。

 羽賀の幸せを応援してやりたいが、したくない。そんな複雑な中で引っ掛かる『孤高の天才』の影は、さっきの柔らかな目元を見て全て吹き飛んだ。

 疲れているにも関わらず、幸せそうな顔をしていた。ストイックに自分を追い込むアイツに必要なのは、あんな穏やかさだったのかもしれない。

 応援してやらなければ。研究者としてのアイツも、人間としてのアイツも。

 俺なんて人間は、今までさんざん羽賀の脛をかじって生きてきたようなモンだ。憎まれ口は叩いても頭は上がらない。
 才能で追い越して出世払いなんて残念ながら出来る気がしないとなると、無意識にでも与えられ続けた恩を返す機会はこういう所しかなさそうだ。

 だとすれば前にやらかした自分の失態に、どこかで落とし前をつけなければいけない。なんとなくそう思えて、真っ白な天井を見上げた。

 どうやらあの事務君には、羽賀の印象は最悪らしい。仕方ない。いくらテンパっていたとはいえ、元を辿れば俺がつっけんどんな態度を取ったせいだ。

 羽賀本人の邪魔にならず当たり障りのない程度に、今夜ひとつあの事務君に詫びでも入れて帰るか。

 そう決めて、ゆらりと椅子から立ち上がった。

「さてと、天下の羽賀郡司大先生の機嫌も戻ったことだし、俺たちも仕事するぞー」

 天才の足を引っ張ってはいけないことを理解しているのか、優秀な人材ばかり固められた部屋。
 それでもたまに鬱陶しそうな仕草をする羽賀に、お前はどこまで天才で居れば気が済むんだとこぼしながら、その日もあっという間に短針が10という数字を指した。





「おーい羽賀、もう帰るぜ」

 研究室の二重扉を抜けた更に奥。もはや羽賀が論文を書くときに引きこもる場所となっている部屋の扉を引いて、勝手に覗き込む。

「あーはいはい。どーぞどーぞ」

 しっしっと軽く払う仕草をする手にため息をついて、すぐに遠ざかる。

 ずいぶん集中しているようだ。このぶんじゃしばらくは出てこないだろう。事務君に謝るタイミングは今しかない。

「よーっし……」

 気だるくふらふらと歩きながら足を進めて、エレベーターのボタンを押す。その待ち時間を使って鞄からマスクを取り出し、顔を覆った。

 あとは目的の人物が事務局に居てさえくれりゃあそれでいい。

 乗り込んだ箱で一階のボタンを押して、地上に降り立ったと同時に窓口へ視線を向ける。

「……おっ」

 ひとまず電気がついていることには安堵して近付けば、案の定ひとりぽつんと座ってノートパソコンと書類とを忙しなく見る男は、間違いなくあの日自分がぶつかった奴だった。

 真剣な眼差しと、黙々と作業をこなしているように見えるその表情は男以外の何者でもなく、話し掛けるのも戸惑われるような寡黙さ。

 一瞬それに気負ってたじろいだものの、足踏みをしていたって仕方ない。なんのためにここへ来たのか。

「……こんばんは」

 なるべく普段通り軽い仕草で、気さくに。そして羽賀がいかにも言いそうな言葉を探す。

「こんな時間まで残業か? お疲れさん」
「えっ……」

 最初の声ではっと顔を上げた男は、俺を捉えた瞬間ひどく驚いたように目を見開いて、ぽかんと間抜けな表情をした。

「……よっ、お久しぶり」

 あまりに気の抜ける表情をするもんだから、思わず笑いながら片手を上げていつもの仕草で挨拶をした途端、すぐに変化は訪れた。

「……どうも」

 眉間に皺を寄せ、低くなる声。明らかに嫌だといった感情を隠しもせず表す顔は確かにこっちのことを全く好いてはいないようだ。羽賀が苦笑するのも頷けるその露骨な仕草は、まるでガキのようだった。

「なにかご用でしょうか」


 素直に謝れば許してくれると思っていたが、これは厄介そうだ。羽賀の顔も引きつる訳か。だが、誠意を見せるしかない。

 渋々といったように作業をしていたデスクから窓口へ歩いてきた男へ向かい、カウンターに両手をついて勢いよく頭を下げた。

「この前はすまなかった!」

 謝罪というのはスピードと歯切れのよさが命だ。今まで散々口の悪い羽賀の尻拭いをしてきた俺が知っている。言い訳よりなにより、まずは頭を下げて謝る、許してもらうにはこれしかない。

「研究がどうもうまくいかなくて、それをなんの関係もないお前に八つ当たりしたんだ!」
「えっ……」
「申し訳ない!」

 畳み掛けるように更に謝罪を重ねて、カウンターに額をつける。すると流石に、戸惑ったような声が窓口越しに響いた。

「や、やめてください! 顔上げてくださいよ、困ります……!」

 確かに困っている声だ。だがまだ許してはいない。

「悪気はなかった、お前に嫌われるのは当然だ。ずっと謝りたかった」
「わ、わかりました。もうわかりましたから……!」

 まだ頭を上げるのは早い。許しの言葉が出るまで待て。

「許してくれ!」
「許します……!」

粘りに粘り、ようやく聞こえてきた言葉にゆっくりとカウンターにつけていた額を離す。

「……本当か?」
「本当です」

窺うように見上げれば、目の前の男は本当に困ったように頭を掻いていて、次の瞬間には何故か申し訳なさそうに口を開いた。

「俺こそ、すみません……」
「……は?」

 それはさっきまで嫌悪感を隠しもしなかった男からは想像もできない、狼狽えた瞳。

「あなたのことを……誤解していました……」
「……誤解?」
「はい……あなたのことは噂で聞いていました。だけどその噂やたった一度会った時の態度だけで、俺はあなたの全てを判断してしまった……。すみません。わざわざ謝りに来てくださって、ありがとうございました」

 熱血と真面目が服を着て歩いているようなものだと羽賀が比喩していたが、全くその通りだという印象。

「……いや、礼をいうのはこっちの方だ。ありがとう」

 どうやら悪い奴ではないらしい。だけどどう見たって普通の男。コイツのどこに羽賀が恋という感情を持って入れ込む理由があるのかは分からないが、これ以上深入りする訳にはいかない。

「じゃあな」
「待ってください羽賀さん」

 そろりと左足だけ下げた時、自分とは別人の名前で呼び止められて、ぎこちなく立ち止まる。

「……なんだ?」
「あの、研究、大変でしょうけど……頑張ってくださいね」

 男らしい暑苦しさの中にある、素直で優しげな微笑み。
 可愛いヤツだ。もしも俺が先輩なら、よく気にかけて飲みに誘っているだろう。誰にでも好かれそうな優しい人柄が窺える。
 頑固で思い込みが激しいのに、案外すんなり過去の思いを訂正できる柔軟性も、最初から全て無理やり他人へ迎合してしまうような奴よりは好感が持てた。

「ありがとよ」

 これ以上長居してはさすがにマズイと素早く踵を返して、出口を抜ける。

「……はーっ、やっと一仕事終わったぜー……」

 今日は自分へのご褒美に、なにか美味い酒でも買って帰ってやろう。


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