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[忙しない人たちと噂]
上月しぐれ











『悪気はなかった! 許してくれ!』

 さっきまで響いていた声を改めて思い出して、席に戻っては腰を抜かしたように椅子に座る。
驚いたし、唖然とした。
だってあれだけ嫌な人だと思っていた羽賀郡司が、こんな俺にたった一度の行いを「ずっと謝りたかった」と、カウンターに額までつけて深く頭を下げた。

 その瞬間、自分はどこまで器量の狭い人間なんだと情けなくなったと同時に、いかにうわべだけでこの人を理解し、嫌っていたのかを知って酷く申し訳ない気持ちに襲われた。

 前河さんは羽賀さんの顔を嫌々立てていたんじゃない。あの人は本当に、いい人だったんだ。

 どうして俺は一度カッとなると、相手に謝らせたりしてしまうまで聞く耳を持てないのか。何度も学習してきたのに。また同じことを繰り返して後悔している。

「……はあぁ……」

 終わらせようとしていた仕事も手につかないほど落ち込んだ意識に、仕方なく帰り支度を済ませて鞄を担ぐ。

 謝ってもらいすっきりした筈なのに、自分の不甲斐なさが尾を引く夜。幻の人とも呼ばれる羽賀さんを間近で見られた興奮なんかより、後悔と自己嫌悪に埋め尽くされたままその夜は更けた。











 それから3日、4日と過ぎて、ようやく気持ちも切り替えられつつあった昼過ぎ。
 あれからもちろん羽賀さんとは会わないし、偶然が重ならない限りもう会えないだろう。彼は俺に謝る用事があったから事務所へ立ち寄っただけ。だとするともうここに用はない。

「あれ? 上月、お前仕事が早くなったんじゃないか?」

 ふと沈みかけていた思考を引き上げてくれた同僚の方へ顔を向ければ、驚いたような顔をしていて咄嗟に言葉を返す。

「あ、ああ……そうなんだよ。ちょっとコツを教わってな」

 ノートパソコンに指を乗せながら笑ってそう答えながら胸を張れば、誰に教わったんだよと突っ込まれて、それを何気なく交わす。

 これだけ噂になっている羽賀さんと同じ研究室で、更に親しい前河さんに会っているなんて知られれば、なにを追及されるか分からない。こんな場所では口が裂けたって、なにも言えなかった。

 時計の針が終業時間を指した時、辺りをさりげなく見渡しながら今日も早々と仕事を切り上げて鞄を担ぐ。
 それを目敏く感じ取られたらしい。先輩の小言を流しては素早く扉を抜けた。

「定時か〜、羨ましいねえ」
「ははは……すみません……」

 最近、帰ってやることは決まっていた。ジャージに着替えて川沿いを走る。ずっと向こう側まで、広い景色を見たくて。

「……はあっ」

 毎日羽賀さんの噂は入ってくる。研究の進行具合がどうだとか、なにをしているかだとか。それを聞いていれば、前河さんが今忙しいことなんてすぐに理解出来た。これは週末のジョギングの話は、水に流した方が良さそうだ。


 帰宅して着替えて走り出した道は、細い幅からだんだんと広い土手へと変化を遂げていく。左手に立派な川を見ながら折り返し地点の橋に触れて、ゆっくりと踵を返す。

「……はあっ、はあ……」

 もう夕暮れも過ぎ、暗くなった空。散歩の時間帯でもない川辺は静かで、自分以外誰もいない。

 滞りなく流れる水。心地よい音。そんな中を走り続けていた最中、いつも同じ川原の場所に佇む女性が今日も静かに川を見つめていた。

 こんな時間に女の人が一人で危ないな。
 そうは思いながらも、話し掛けるなんてナンパじみたことも出来ずにいつも後ろを通りすぎるだけ。

 「……はあっ」

 汗を拭いながら自宅の扉を開いて、脱衣室へと向かい体に張り付いた服を脱ぎ捨てて浴室へ踏み入れた足。
 今日も難なく走り終えることができた。まだ始めて数日。そうすぐに変化は出ない、とにかく続けよう。
 頭から降り注ぐお湯を目を閉じて浴びながら、湿気が籠る狭い浴室に立ち込めた水蒸気。

 シャワーの雑音の中でも微かに聞こえた郵便受けになにかが落とされた音に、ああ、そういえばまた支払いをしなければいけないとため息をついた。
 もっと食費を節約しないと。それか掛け持ちでも始めようか。今のままじゃ生活が厳し過ぎる。

 一度そこまで思い出してしまえば、一気に引き出されていく過去の記憶。

 これだけ馬鹿な目を見てきたのに、どうして俺はいつまでも学習しない馬鹿のままなんだろう。情けない。騙されやすいと分かっているのに、いつも同じ手口で騙されてしまう。
 本当に、馬鹿みたいだ。

「…………」

 うなだれて過去に思いを馳せても、変わりはしない現実。

 嘆くよりも前に進まなければ。恐れるよりも信じなければ。

 大丈夫。前河さんは、あの人は他とは違う。俺を利用したりなんかしない。
 頭のいい人。お金にだって恵まれている筈。

「……はあっ、畜生……っ」

 頭が痛くなる昔を思い出して、一度強くタイル貼りの壁を叩いた。







「なんか、最近マスクつけて歩いてる人増えたよなあ」

 仕事中、何気なく隣で先輩が呟いた台詞に、言われてみればそうだなと思って返事をした。

「そうですねえ。確かに増えたような……」

 すっかり窓口にきた泣き落としの研究者の相手は俺がすることになっていたせいで、すんなりとマスク率の高さについては思い出せた。

「羽賀さんの影響か……全く。でもそれにちゃっかり乗っかるあたり、研究者の人たちも案外可愛いよなあ」

 その台詞に苦笑して、またパソコンと向き合う。
羽賀さんと聞けば、つられて思い出すのは前河さんのこと。先週は一度も窓口には現れず、結局週末に連絡も取らなかった。そして向こうからもなんの反応もない。忙しいことは分かっている。それを邪魔するべきでないのも。
 たかが口約束だ。途切れたってなんの不思議もないし、責めるものでもない。
 ぬるま湯のような心地よい関係を保つには、今の緩さを無理に変えない方がいいんだ。

 それに、一人で走っていて良いことだってあった。昨日、あの女性に初めて話し掛けられたことを思い出す。

『いつも、走ってますね』

 なぜ急に、昨日話し掛けられたのかは分からない。だけどあの黒く艶やかな髪と綺麗なのに憂いを秘めた表情に、一瞬にして奪われた目。

「上月〜、なぁに腑抜けた顔してんだあ?」
「えっ!? い、いやっ別になんでもないですよ!」
「さては好きな女でも出来たかあ?」
「ち、違いますって……!勘弁してくださいよ〜」

 あながち間違いではない台詞に頭を掻いて、なんとか会話を流そうとした矢先、窓口に人影が見えたことを口実に無理やり会話を遮った。

「あっ、こんにちは。なにかご用ですか?」

 慌てて向かったその場所に有難いと感じたのは初めてだけれど、ついついいつもより笑顔を優しくしてしまう。
だけどやって来た人の瞳を見た刹那、一瞬体の動きが止まった。

「久しぶり……元気だった?」

 硝子板越しに囁くような声。柔らかな笑みを浮かべた目元。実物を見るのがあまりに久しぶり過ぎるせいか、それともこんな日中に初めて現れた驚きのせいか。声すら出なかった。

「……なに、もしかして俺のこと忘れちゃった?」


 それをからかうように笑った人は、また回りには聞こえないような小さな声で、秘密の話をするように囁く。

「今ちょっと立て込んでて、色々ごめんなさいね」
「ああ、いえ……噂でお聞きしてます。お忙しいようで。体調は?」

 それにこっちまで合わせるように囁けば、目の前の人はさらに悪戯っぽく微笑んだ。

「大丈夫、問題ないよ。今週末こそ空けるから、その時は思いっきり走らせてもらおうかな」
「はははっ、楽しみです」
「ああそうそう、ところで、この書類なんだけどさ」

 雑談から本題へと切り替える滑らかな仕草に、流されるがまま差し出された紙束を受けとる。

「はい、チェックですか?」
「うん。ちょっと急ぎで……いけます?」
「ええ、今日は誰からも渡されてませんから。余裕です」
「やだま、逞しい〜」

 久しぶりに見ても、変わらない笑顔と落ち着く口調。この人と居ると安心感を見出だせるから、もっと長く一緒に居たくなってしまう。

「……よかったら、今夜一緒に帰りませんか?」

 まるでそんな内心を見透かしたように、わざと背中を丸めて俺を見上げた瞳が真っ直ぐに問うてくる。
 それに一瞬ドキリとして、それでも嬉しくて頷いた。

 そんな俺を見た前河さんも緩やかに微笑んで、じゃあまたと手をあげて颯爽と窓口から去っていく。

「なんだ、またマスクの研究者か。って、うわっ……お前そんな分厚い書類受け取って……大丈夫かあ?」
「まあ、今日はこれだけですから」

 何時に帰るだとか、そんなことはいつも決めない曖昧な約束事。それでも、前河さんと帰れることを思えば待つことは苦にならない。

 こんなにも分厚い書類を受け取った後にも関わらず上機嫌な俺に、向かい側の席に腰掛けた先輩が不思議そうな顔で口を開いた。

「あれ、今の誰だ……? あんな人居たかな……」

 飯山さんはこの事務局の中でもベテラン中のベテラン。その人が前河さんを知らないなんて少し違和感があって首をかしげた。

「マスクのせいで誰か分からなかっただけじゃないですか?」
「そうかなあ……。いや、やっぱり見たことないと思うけどなあ。なに、上月はあの人が誰か知ってるのか?」
「え、ええ……まあ……」

 気づけば聞き耳を立てるように静まり返った事務局の中で、呑気な飯山さんの声だけが響く。

「へえ、あの人誰?」

 まずい。明らかにみんな好奇心を丸出しにして聞いている。下手に誤魔化せば怪しまれるだろうし、ここは素直に答えておいた方が良いのだろうか。
 そうだ、別にやましいことでもある訳じゃない。ただ、書類を渡されただけなんだから。

「前河さんですよ、前河さん」

 至って軽い口調で告げて、またパソコンへと両手を乗せる。普通にしていればいい。俺は仕事をしているだけ。
 だけど平静を装う俺の言葉を聞いた飯山さんは、何故か更に不思議そうな顔をして問い返してきた。

「えっ? 前河さん? 前河さんって、あの羽賀さんの研究室の?」

 その声音があまりに違和感満載といったものだったから、変な空気が辺りに漂う。

「えっ? ああ、はい。そうですけど?」
「そんな訳ない筈だけどなあ。前河さんだろ? 俺も何回か話したことあるけど、あんな人じゃなかったぞ」

 あまりに綺麗に行き違う会話に、こっちまで頭に疑問符が出そうになってきた。

「えっ、でも……あの人は自分で前河だって……」
「違う違う。前河さんは黒髪だよ。あんな茶髪じゃないし、マスクもつけてない。それにもっと体格ががっちりしてる」

 なんだ、どういうことだ。訳がわからない。

「ま、待ってください……前河さんって、前河敦さんですよね」
「ああ。前河敦さんだよ」

 俺の知っている前河さんと飯山さんが知っている前河さん。そのギャップがあまりにありすぎて、まるで別人のよう。

「うん。やっぱりあれ、前河さんじゃねえよ、絶対」


 この偉大で優しい先輩が、嘘をつくなんて思えない。
 だとすれば。

「お前、あの人に騙されてんじゃない?」

 一瞬脳裏をよぎったものがそのまま言葉として突き刺さって、心臓が止まりそうになった。

「…………」

 俺が、騙されている?

 なぜ、どうして、なんのために。

「……まあ、そう深く考えるなよ。事務局でわざとそういう冗談使ってまで名乗りたがる研究者もたまに居るから」

 混乱している俺を落ち着かせようと笑ってくれた先輩の言葉に、何故か回りのみんなが失笑している。
そんな中で俺ひとりだけが、眉間にシワを寄せたまま動くことが出来なかった。


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