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[夜の匂いと光の痕跡]
上月しぐれ








「なあ、お前今日遅くなるって言ってたよな」
「えっ? ああ、そうだけど」
「もし夜中に前河さんが来たら、これ。渡しといてくれないか。もうチェック済んだから」

 あんなことを聞かされてのうのうと前河さんと帰れる程、俺は出来た人間じゃない。

「おう、いいけど。お前もう書類チェック終わったのか。こんな分厚いのに」
「まあな。じゃ、悪いけど」

 6時になる前に職場から遠ざかって、外の空気を吸い込む。

 ずっしりと重い足と騒ぐ胸を押さえて自宅の扉を開いた後には、直ぐ様ジャージに着替えていつもの川沿いを走った。

 少しでも立ち止まってしまえば考えてしまう。

 なぜ、どうして。

 あんなにも優しく笑う。

『上月さん』

 あの人は、誰なんだ。

「……はっ……はっ」

 俺はまた騙されているのか。いや、でも騙す意図が分からない。なんのために俺なんかを。
 考えれば考えるほど深みに嵌まってしまいそうな頭を振って、なにも考えられなくなるほどピッチを上げていく。

「……っ」

 自分を追い込めば追い込むほど乱れていく息と限界を訴え始める脚。

 気づけばいつもの折り返し地点なんてとうに過ぎて、見たことがない景色へと移り変わっていた。それに目をこらした瞬間、どんよりと澱んだ雲から、ぽつりと落ちてきた水滴が頭に当たる。

「……あれ。うわっ」

 いつの間に、曇っていたのだろう。そう考える前には一気に降りだした雨に、慌てて近くの橋梁の下へと駆け込んだ。

「……はーっ、マジかよ……」

 酷い豪雨。仕舞いには耳のすべてを突き刺すような雷鳴まで響く始末。まるで今の自分の気持ちを代弁するかのような天気に、力が抜けた足でその場に座り込んだ。

 これは長い雨宿りになりそうだ。

「……はあっ」

 橋梁下の左右で降り続く雨。まるでバケツをひっくり返したようだ。雨足が強いせいか、地面が白く見える。

『こーんばんは』

 あそこで働いている研究者なのは間違いないんだ。白衣も着ていたし、あの時間まで建物に居た。問題はなぜ俺に名前を偽る必要があったのかだ。
 意味が分からない。前河と名乗ることで、凡人の俺にちやほやされたかったのだろうか。でもそんなことをして己の自尊心を満たすような人には、とても思えなかった。あんなに賢い人なのに。なぜ。

「……あの」
「!?」

背後にあるコンクリートの柱に背中を預けて更に頭を抱えた時、雨音の中突然掛けられた、今にも消え入りそうな声にハッと顔を上げた。

「……あの、大丈夫ですか?」

 黒く長い髪。儚げな目元。白いワンピース。開いていた傘を畳む仕草をした時に滴った水滴が、足元のサンダルに落ちていく様を唖然と見詰める。

「……酷い雨ですね」
「は、はあ……」

 いつも見掛ける女性。夜に川辺へ座り込んで、世の中の全てを憂いているような眼差し。

「今日も走ってたんですね。こんな雨なのに」

 透明な声音。その服に負けない真っ白な肌。

「え、ええ……まあ……」

 深く沈んで考えていた頭がまるで嘘のように、この不思議な空気を纏う女性に掻き消されていく。

「……なにかあったんですか?」
「えっ……」
「暗い顔を、されていたから」

 自分なんかを気に掛けてくれるような優しい言葉に、ドキリと高鳴る胸。

「あ、あはは……いえ……少し、考え事をしていただけです……」
「聞かせてください」

 照れを隠すために頭を掻いて、雨が吸い込まれていく川へと視線を反らせば、すぐ真横に彼女が座る気配がしてますます緊張が高まった。

「や、いや……その……」

 なんだ。確かに走り出して毎日見掛ける姿は、気にはなっていた。そんな彼女と昨日一言二言会話が出来たことに浮かれていなかったといえば嘘になる。
 だけどこんなに都合のいい展開なんて、果たしてあってもいいのだろうか。

 そんなあまりの嬉しい出来事に言葉を詰まらせていれば、彼女は何故か悲しそうに、またあの瞳で俺と同じように川を見詰めた。

「急にすみません……ご迷惑ですよね……」
「め、迷惑だなんてそんな……! お、俺……口下手で……」

 格好よく振舞うなんて昔から出来ないし似合わない。結局いつものようにわたわたと身ぶり素振りで慌てて、また最後には頭を掻く。

「ははは……それにきっと、こんな話聞いてもなにも楽しくないですよ……」
「構いません。聞きたいんです」

 色素の薄い大きな瞳が、黒い髪の隙間から真っ直ぐこちらを覗く。
小さな顔、高い鼻。柔らかそうな唇、華奢な体。これだけ自分好みの女性なんてそうは居ない、美しい人。

 こんな美女に「あなたの話が聞きたい」なんて促されていい気にならない男なんて、そう居ないのではないだろうか。

「えっ、あ、あはは……そ、そんな大層なことじゃないですよ……ただの不幸自慢になっちゃいそうだ……」
「……今のお仕事は、なにをされているんですか?」

 自分ひとりでは進みそうにない話に、なめらかな疑問が滑り込む。

「ああ、今は普通の事務職です。その前は公務員でしたけど」
「……公務員ですか、凄いですね」
「全然。ただの地方公務員ですから……それにもう辞めちゃったし」

 雨足は酷くなっていくばかり。だけどそれを、今はありがたく思った。

「……どうしてお辞めに?」
「騙されたんですよ。その時の親友に」

 回りの雑音が酷い方が、何故だか穏やかに話せる。

「ソイツとは高校からの付き合いでね、すげえいい奴だったんです。だからうっかり書類にサインしちゃいました。連帯保証人の」
「…………」
「その後は案の定ってやつですよ。前の職場にもヤクザから取り立ての電話が俺宛に来るもんだから、なんだか居辛くなっちゃって。それで今は事務の仕事見つけて細々と。逃げの毎日です」

 真上で雷鳴が響いた刹那、彼女が怯えたように俺の左腕に触れる。

「ついてない上に騙されやすいんですよね、俺って。他にも詐欺にあったりなんやかんやと痛い目を見てきた筈なのに、全く学習もしないで」

 鋭く青白い光が、辺りを一瞬だけ照らした。

「……で、最近やっと『この人なら信頼できる』って人と出会えたかと思ったら、どうやらまた胡散臭いニオイがしてきまして……。人なんか信用しちゃ駄目だって、分かってるのになあ」

 渇いた笑いと一緒に、無意識に彼女の手に触れ返す。
 人の温もりに飢えているような日は、どうしようもなく惨めな気持ちになった。

「……真面目な方。あなたは優しい」
「はは……間抜けなだけじゃないですか」

 ふと冷たい手が頬に触れる。それに導かれるがまま隣へ顔を向ける。

 間近にある綺麗な顔。潤んだ瞳に息を飲んだ。

 またすぐそこで雷が響いた時、優しく重なった唇。

「……あなたを、慰めてあげたい……」

 背中から腰にかけてが痺れてしまうような囁く声で、耳元に寄せられた唇。

「あ、あ、あの……っ」
「あなたの家に連れていって……」

 目の前が、くらくらしてしまうような夜だった。








 突き刺さる日差しに、ゆっくりと瞼を開く。

「……っ」

 固い床に押し付けたままだった気だるい体で寝返りを打って部屋を見渡した瞬間、思考が固まった。

「…………」

 全ての引き出しが開けられた箪笥。乱れた本棚。自分のすぐ傍に置いてあった親父の形見の時計や、財布の中の金もない。

 そしてもちろん、彼女の痕跡も。

『あの、俺向こうで寝ますから。布団使ってください』

 風呂を貸して、共に飯を食った夜。結局そういうことをする根性のない俺がそう切り出せば、彼女も微笑んで、別々の場所で眠りについた。

 彼女は彼氏が居るんだと言っていた。ソイツがとんでもなく嫌なヤツなんだと。自分が身体を売ってまで金を貢いでも、その額が少ないと暴力を振るわれて。人間として最低だと。だけどそんな最低な男が好きな自分が、一番最低だと。

 俺たちは金に見放され、仕舞いには運にも恵まれていないねと笑い合った。お互いに似ていると思った。

 ――本当、最高にそっくりだよ。笑えてくる。

「…………」

 身体を起こして、なにもかも空っぽになった部屋を改めて見渡した。

 全く昨日から、恐ろしいほどツイていない。

 唯一救いなのは、今日が土曜日で仕事が休みであることくらいだ。流石に能天気な顔で出勤出来るほど強くはない。

 もう騙されまいと話していたばかりなのに、簡単にハニートラップに掛かってしまって。逆にここまで騙されると面白いな。

「はははっ……」

 空笑いをしながら、ふと残されていた携帯だけを引き寄せて力なく片手で頭を掻いた。
 さすがにこれを盗りはしなかったようだ。まあそれだけでも有り難い。

 昨日話していた彼女の話が嘘か本当かもわからないけれど、警察に連絡する気にはなれなかった。

「はあ……」


 また1から無い蓄えを増やしていかなければいけない。財布の現金もそうだけれど、親父の形見は痛かった。

 あれしか親父を思い出せる品がなかったというのに。

 膝を抱えた場所に頭も埋めた時、こんな心情や空気を読まないような携帯電話の振動が無機質に響いて、緩やかに顔を向ける。

「…………」

 画面には『前河さん』とあって、そういえば週末にジョギングをしたいと言っていたことを思い出す。

 全く、どいつもこいつもタイミング悪くいっぺんにやって来やがって。一体どれだけ俺を苦しめれば気が済むんだ。

「……チッ!」


 待てど暮らせど一向に鳴りやまない呼び出し音に、やけくそになってその電話に出てみた。

「……はい」
『あら、おはようございます。上月さん、もしかして寝てました?』

 能天気な声だ。なにも考えていないといったように、無防備な。

「……ええ、まあ」
『もしかして体調が悪いとか?』
「体調は悪くありませんが……」

 昨日とは違い、今日は憎いほど晴れ渡っている空。

『そうですか、よかった。いやあ、昨日は雨だったでしょ。だから少し不安だったんですけど、今日はいいジョギング日和ですねえ』

 何気ない口調でこっちに用件を促す言葉もそのなにもかもを遮って、お前は誰だと激情のまま今すぐに問い詰めてやりたい。だけれどまだどこかで、この人の優しい声を信じている自分も居る。

「……前河さん……」
『はい、どうしました?』

 偽者かもしれない名前を呼んでも、真面目に低く返される声。

「俺……イカれちゃいました、全部……」
『……イカれた?』

 そんな対応をするから、信じたくなってしまうのに。

「物取りですよ……色仕掛けのね……はは……今朝起きたら部屋ん中すっからかんです……」

 流石に驚いているのだろう。しばらく沈黙が続く携帯越しに、困惑の色が混じる。

『警察に電話は』
「しませんよ……こんなこと情けなくて言えないじゃないですか……」
『言った方がいい』
「いいんです……どうせ盗まれたっても、時計と2、3万くらいですから……」

 いくら優しい振りをしていたって、この人も俺を騙しているかもしれないと思えば胸のつかえが取れない。

『上月さん……今、自宅ですよね。俺そっちに向かいます。どの辺ですか』
「で、でも……」
『気にしないで。どうせ土手に居るんです。すぐそこでしょう』

 ずっとずっと優しい人にこっちが戸惑って、言葉の迫力に素直に自宅の場所を告げてしまう。
 いい機会だ。ならば今日全てをすっきりさせてしまえばいい。あなたは誰なんだと、問い詰めて。そう覚悟を決めてしまえば、いくぶんかこの重いつかえが取れた気がした。




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