PAGE
[嘘つきの仮面を剥ぐ]
上月しぐれ







 扉を叩く音は、案外すぐに訪れた。

「上月さん、俺です」
「……開いてますよ」

 動く気力もなく台所に座り込んだまま告げれば、すっと開かれた玄関。

「……こりゃ酷いですね」

 散々に投げ出されたものや部屋の現状を見て眉間にシワを寄せた人に、皮肉混じりに口を開く。

「荒らされたってのもありますけど、元から俺の部屋、汚いんで」
「荒らされ方が酷いって言ったんです」

 開け放していた扉を改めて閉めては靴を脱ぎ、一直線にこっちへやって来た彼は、いつもと同じマスク姿。だけど体には見慣れないジャージの上下を纏い、ふわりと風を纏いながら目の前にしゃがみ込んだ。

「なにがあったんですか。俺に全部、話してください」

 全部話せだって?
 同じ言葉に真実というフレーズも付け足して、今すぐにでも聞き返してやりたい。そんな感覚をグッと堪えて、深くため息をつく。

 怒ることも悲しむことも苦しむことも、今は全てが面倒だった。

「……言ったでしょう。色仕掛けで近寄ってきた女をまんまと家に上げて、全部やられました」
「どんな女だったの、どこで会ったの」
「美人でしたよ……黒髪でおしとやかで、俺好みです。いつも走ってる川沿いに、彼女が座ってたんです……それで昨日、話し込んで」

 言葉の途中にも、力なく後ろの壁にもたれかかった肩を掴まれて、揺れる上体。

「どうして素性もよくわからない人間を上げたりするんですか……!」

 初めて聞いた厳しいその怒鳴り声に、多少驚きはしたもののすぐに視線をそらす。

「だから、色仕掛けですって。あんな美人にキスされて『あなたを慰めたい』なんて言われて……部屋に招かない男が居ますか?」

 ククッと喉元から競り上がった笑いを隠しもせず晒せば、苦々しい舌打ちの音が響いた。

「……寝たんですか」
「どうして、そんなことを聞くんです」

 当たり前のことを、彼の肩越しにある荒れた部屋を見詰めながら呟けば、はあと返されるため息。

「そんな女、病気持ちかもしれないでしょーが。移されたかもしれませんよ」
「……これだけ盗られるならいっそ、移されるような事でもしたらよかった……」

 体なんてこの部屋で、指一本も触れていない。こうなると分かっていれば、イイコトをしたかったよ、俺だって。

「……してないんならなによりです。で、本当に警察には言わないの?」
「言いません……時間の無駄です」

 なにもしたくない。被害を訴えることも、面倒な手続きをするのも警察官と話すことも。

「今、自棄になってるだけじゃない?」
「いいえ」

 彼女を捕まえたところで、きっと親父の形見は返ってこないだろう。ならばもういい。全てを諦める。

「……はあっ。カードは?クレジットカードとか、財布の中身は見ました?」
「いいえ」
「なら今すぐ見て」

 強引に開かれた財布を目の前に突き付けられて、仕方なく視線を落とす。
 相変わらず汚い財布の中身だ。レシートも突っ込んだまま整理もしていない。そんな紙くずをすり抜けるように綺麗に札だけが抜かれているのは分かるけれど、他に違和感はなかった。

「……カードは大丈夫みたいです」
「もっとよく見て。免許証は、保険証は?」
「……あります」

 あなただって見たら分かるでしょう。そう呟いた時、善意でよくしてくれている相手にこんな言い方はマズイとは思ったけれど、謝る気にもなれない。

 そんな情けない俺を責めるでもなく、怖いくらいに優しい声音が鼓膜を揺らす。

「……素性の知れない女を連れ込むくらい、寂しかったんですか?」


 からかっているようでもなく、真剣な眼差し。それに心配の色が滲んでいるのが見えて俯いた。

 いくら素性が知れないとはいえ、実は彼女のことが気になっていたから昨日は大きな好機だと思っていましたなんて事実は、今この空気では言えそうにない。

「……寂しいとはまた違いますけど、確かに不安定でした」

 不安定。そんな言葉で誤魔化した俺の頭を、大きくて冷たい手が撫でる。

「……なにがあったの」

 優しくされる度に、無気力なはずの心が苦しくなった。

「触らないでください」

 子どもをあやすような手を叩き落として、もう逃げ場もない背後に更なる逃げ道を求めて無理やり後ずさる。

「どうしたんですか」

 それを不思議そうに眺めてにじり寄ってくる人との関係がこれで全て変わってしまうのかと思えば、怖くて体が強張ったけれど。最後にはなにもかもを諦めて力を抜く。

「俺が怖い? なに、本当にどうしちゃったの」

 マスクから発される小さな声。長くて綺麗な指先。

「……前河さん」
「はい」

 項垂れて、唾を飲んで、意を決して。ようやく真っ直ぐ色素の薄い瞳を見据える。

「素性の知れない人を家に招き入れるのは、駄目な事ですよね」
「当たり前じゃないですか」

 そう、どうせなら今。全てを暴き出してしまおう。

「なら、あなた、本当は誰なんですか」

 試さなければ。俺は騙されているのか、いないのか。
 真実を、引き出さなければ。

「俺はあなたの素性が分からない」

 一気に張り詰めていく空気に、尋常ではない状況を叩きつけられた。

「本当に前河敦さんなんですか?」

 長い長い、無言の時間が目の前で流れる。

 目の前からはなんの感情も見られない瞳が、ただじっとこっちを見据えていた。


「……すみません」

 そしてようやく口を開いた彼が一番に告げた謝罪の言葉に、落胆と絶望が頭を染める。

「……そうです。俺は、前河敦じゃありません」

 やっぱり、嘘だったのか。やっぱり。

「どうして嘘をついていたんですか……あなたは、誰なんですか……」

 弱っているところに追い討ちをかけられるとはこのことか。
 無気力の極みに達して、指先すら動かない。

 だけどそれを掻き分けるように入ってきた声音は、俺以上に更に無気力で、無機質なものだった。

「……ならもしも、俺が羽賀郡司だったとしたら?」

 その台詞の意味を理解し、処理するのに、何秒ほど掛かっただろうか。

「……はい?」
「あなたは今のように気軽に話し、接してくれましたか」

 なんだ。またこれは、なにかの冗談か。そう思った刹那まだ言葉にもしていないものに違いますと釘を刺され、なにも言えなくなる。

「俺は最低な嘘つきです。今日まで上月さんを騙し続けてきた。本物の前河と一緒に」

 頭が真っ白になるとは、こういうことを言うのだろうか。

「最初はこんなつもりじゃなかった。ただ俺の正体を明かせばあなたは萎縮して、俺の噂話なんて教えもせずに謝り続けるだろうと思ってその場凌ぎの嘘をついたんです」

 なにもかもを奪われた部屋の中、やっぱり嘘をついていた男が今度は急に「俺は羽賀郡司だ」と名乗り出す始末。
 全くもって、意味不明だった。

「それから段々、あなたともっと深く関わりたいという欲求がわいてきて出来れば友人になりたいなと思っていた矢先、前河が変な態度を取ったせいであなたは羽賀が嫌いになっちゃうし、嘘つきも大嫌いだって言う。おまけにどんな嘘が駄目かって聞くと実は俺が羽賀でしたなんて下らない嘘は許せませんだよ? 本当のことを言えると思う?」

 自分が理解しうる範囲の現実と空想の境界線を、遥かに越えていた。

「いや、それでも俺がもっと早くに切り出さなかったことは本当に悪いことだったと思っています。あなたの信用をこうして裏切った」

 こちらが責める間も与えず、全ての怒りの矛先を先に自白し埋めていく姿に、唖然としか出来ない。

「悪質な嘘をついてすみませんでした。ただ、悪意はなかったんです。俺は純粋にあなたと仲良くなりたかった」

 悲しげに、苦しげに、切なげに。
 ただ必死に言い訳と謝罪を繰り返す唇はマスクに隠されたまま。

「あっ、まずは俺が羽賀郡司である証拠を見せた方がいいですよね。ほらこれ、免許証、保険証も。メールアドレスを交換しなかったのも、アドレスには自分の名前をそのまま使っているからです。ほらこれ俺のアドレス、見てください」

 ジャージのポケットから取り出された財布を開き、次々と身元の書かれたカード類を無理やり手渡され、最後には携帯を置かれる。

「これは嘘でも冗談でもない。俺は正真正銘、羽賀郡司なんです」

 目元だけでも分かる、あまりにも必死な形相。滲んでいる冷や汗。

「嫌いですか? もう駄目ですか? 友達にはなれませんか?」

 なぜそこまで食い下がるのかが分からないほどの声音で迫られて、手のひらに乗せられたカードや携帯が散らばるように落ちていく。

「俺、今まで研究にしか興味がなくて。初めてなんです。こんなに人と仲良くなりたいと思ったのは」

 この人の真意が、いまいちよく分からない。

「だから今あなたが心配だ。こんなにも疲労困憊しきって無気力になってる。俺のせいもあるんですか? そんなに悩ませてしまいましたか? だとしたら居たたまれない。胸が張り裂けそうだ」

 彼がここまで他人と接近したいという感覚を持った事がないように、俺だって他人にここまで必死に求められたことがないせいか、戸惑いが先行した。

「俺はあなたを今後、一切騙したりしない。なんなら預金額まで全部、本当に全て見せてもいい。金のために近付く訳じゃない。ただ『上月さん』と、人として仲良くなりたいんです」

 騙されて断ち切ってきた友人関係は山のようにある。
 その度に傷付き、もう親しい友人なんて二度と作るかと奥歯を噛んだ。

 なのにまた、俺は友人を作り、信じるのか。女にも騙された後。さっきまで平気な顔で自分を騙していたこんな人を。

「俺、友達が居ないんです。変人なんです。マスク外さないし人に土下座はさせるし悪どいし口も悪いし。頭がイカれてるってよく言われます」

 こんな、子犬みたいに、泣きそうな顔で俺の服を掴むひとを。

「だけど、俺」
「ぷははっ」

 このまま聞いていれば、ずっとずっと言葉を続けていそうな空気に耐え兼ねて思わず吹き出せば、止まった空気。

「わ、分かりました。もう分かりましたから……」

 なんだか、馬鹿みたいだ。この人の目を見ていたら、なにもかもがバカらしく思えてきた。

「えっ……」
「羽賀さん、で……いいんですよね?」

 きっと明日から新しく、単発でもいいから夜の職を探さなければいけなくなるだろう。返す借金の額も変わらないし、今月末に補充する筈だった定期代も抜き取られてしまった。

「はい、そうです。羽賀です」
「はーっ。じゃあ、俺が会ったあの羽賀さんは、前河さんですか」
「はい、あれが本物の前河敦」

 それでも、新しい友人が出来たと思えば少しは気が楽に、明るくなった気がした。

「……羽賀さん」
「は、はいっ」

 力が抜けて動けなかった体をゆっくりと滑らせて、落ちてしまったカードや携帯を相手に返して立ち上がる。

「部屋を片付けるの、手伝ってもらっていいですか」

 その言葉を聞いて、ぱっと花を散らしたように明るい瞳をした人は、にっこりと嬉しそうに微笑み、滑らかに指先を動かした。

「もちろん。俺、こう見えて掃除が上手いんです」
「あはは、そうでしょうね」
「えっ?」

 あんな神経質にも近い完璧な書類を提出してくるような人だ。きっと部屋だって綺麗にしているに違いない。

「……あ、エロ本。へえ、上月さんってこういうのが趣味なんだ」
「うわあぁあ!? そっ、そういうのは触って頂かなくて結構ですっ!!」

 微笑んでいられたのもつかの間。器用に人が見られたくないものばかりをつまみ上げてはからかってくる彼に踊らされて、自分の片付ける手が一向に進まない。

「脱いだ服はせめて洗濯機に入れましょうね」
「は、はい……」

 結局羽賀さんがてきぱきと掃除をする背中を追ってついて回るだけの格好で、ひっくり返された引き出しは全て仕舞われ、乱雑に置いていた服や雑誌も本来あるべき場所に片付けられる。
その手付きは、片付けの達人といっても過言ではないほど滑らかだった。

「ふーっ。おっしまい」

 パンパンとジャージを払った人が満足そうに笑うのを見て、今さらながら罪悪感がわいてきた。

「あ、あのー……」
「ん?」
「すみませんでした……流れとはいえ、羽賀さんみたいな人に俺の部屋の掃除なんか……」

 幻のひと。噂の的。羨望と期待を浴びる天才。そんな人に埃まみれの部屋をはたかせ、洗いもせずたまっていた服や食器を洗わせたことは、よくよく考えなくともとんでもないことだ。
 肩をすくめて身を固くするしかない自分の顔に、何故か突然冷たい指先が触れて、そのまま摘ままれた。

「アンタねえ。なにか変なこと気にしてない?」
「へ、へんらこほ……」

 摘ままれているせいでうまく話せない俺なんて意にも止めず、真っ直ぐな眼差しと話す声。

「そ。研究者とか、事務だとか。羽賀さんみたいな人だとか、俺みたいなとか。そーゆーの、無しにしてください」
「で、でも……」
「でももデモクラシーもないの。友達じゃないですか、俺たち。それともなにか違いました……? もしかして友達だなんて俺の勝手な勘違い? 早とちり?」

 余裕綽々な顔をしていたかと思えば、急に子どものようにもなる。この人が見せる顔は、多種多様。

「いえ……そうじゃありませんけど」
「そう、良かった。俺、親友のポジション目指して頑張るので、どうぞよろしく」
「そういうことって、普通言います……?」
「あれ、言わないんですか?」
「ええ、たぶん言いませんよ、普通は」

 物凄く賢いのに、どこか抜けている人。

「いやあ、なんせ世間離れしているとよく言われるもので……」
「……どうして、俺なんですか?」

 綺麗になった部屋の中、ちゃぶ台を挟んで向き合う距離で不意に問えば、彼はまた穏やかに、にっこりと笑った。

「あなたと一緒に居ると落ち着く。ただそれだけです。いけませんか?」

 真っ直ぐ言ってくれたその言葉が嬉しくて、頭を掻く。

「……いえ、そんなことはありません。ありがとうございます。嬉しいです」

 決して純真な訳でもなんでもない。卑怯なことだって知っているし、皮肉気に笑うことだって出来る。一通り大人と呼ばれる世界で辛酸を舐めた。こんなどこにでも居る冴えない俺が、世界でこの人しか居ないと名指しされる人に友達になってくれと言われることに、悪い気がする筈がなかった。

「あっ、そうだ。別に見るつもりはなかったんだけど……」

 もう昼過ぎにもなる強い日差しが窓から差し込んで、古くなった畳を照らす。
 お互い緩み始めていた中そっと差し出されたのは、封を切ったままその辺に投げ出していた督促状だった。

 あれだけ背中に張り付いていたのに、いつの間に。
 一瞬固まった思考も、すぐにほどいて苦笑する。自分から言い触らすようなことではない情けない過去も、知られてしまえば隠していたって仕方ない。
 吐露しても、この人にはなんの物理的な迷惑は掛からないのだから。

「……ああ、はい。そうなんですよ」
「こんなことずけずけと言いたかないけど、えらい額じゃない。あなた、そんな人には見えないけど」

 ドカリと腰を下ろして心配そうにこっちを窺う彼に、へへへと頬を掻きながら今までの経緯をぼそぼそと紡ぐ。すると呆れながらも最後まで話を聞いてくれた人はその顔を変えず、胡座をかいた脚に肘を置いた腕で頬杖をつきながら真っ直ぐにこちらを見据える目は、果てしなく現実的な色味を帯びていた。

「うん……アンタやっぱり、いい人過ぎだよねえ。駄目でしょ、そんな明らかにヤバい紙にサインなんてしたら。金の切れ目は縁の切れ目ですよ」
「はい……あれで勉強しました」
「それで、どうやって返すんですか? これ、今の給料じゃキツイでしょう」

 淡々と、的確に痛いところを突いてくる。ちゃぶ台を挟んだこの客観的な距離は、自分の引きつった顔を隠すのに都合が悪い。

「ははは……まあ、でもなんとかしないと。ねえ」
「新しく仕事でも始めるつもりですか? 体がぶっ壊れますよ」
「でも、返さないとですから」

 一体この人はなにが言いたいのか。その探りを入れる前には、また素早く言葉に挟み込まれて頭が止まる。

「アンタ、今の貯金はいくら?」
「は、はい?」
「貯金。いくらあるの?」

 急に具体的な言葉が出てきて焦りが隠せない。そんなことなんて全て見通しているかのように、結局かなりプライベートな情報まですんなりと引き出してしまった人は、頭の中で算盤でも弾いているかのように頬杖をついているのと反対の手で、カチカチと爪と指先をちゃぶ台で叩いて遊ばせた。

「んーと、そうなるとアンタの貯金に300万足して一括で返せば、被害が一番少なく済むねえ」
「さ、300万なんてそんな大金、ありませんよ……」
「あのねえ。友達をどういう時に頼るか知ってます?」

 滲む汗。嫌な予感。

「だ、駄目です! あなたからお金は借りられません!」
「ならこのどこぞのヤミ金からまた更に利率引き上げられて滞納して、職場に電話受けます? そんなのあなただって嫌でしょうし、客観的に見ても金の無駄です。なら今、さっさと返してバイバイしちゃいましょうよ。俺も居ますから。ね?」

 人から現金を無心されることには慣れていても、自分からそうすることは考えられない。引け目を感じてしまう。金の絡んだ付き合いなんて嫌だ。

「上月さんの考えてることもわかりますけど、もっと現実的に考えてください。利率を引き上げまくって真面目なあなたから身ぐるみを剥がそうとするヤミ金業者か、変人だけど素性の知れた俺。長くお付き合いするならどっちがいいですか」

 唇を噛み締めて、膝の上で拳を握る。

「あなたに金を貸して立場的に優位に立とうなんて、俺がそんな下らないことをするように見えます? 利子もなにも付けませんから、普通に返してくれりゃそれでいいですよ」

 確かにそうかもしれない。一気に返済すれば気も楽になるだろう。だけど、本当にいいのか。返せる保証もないのに、無償で多額の融資を受け取るなんて。

「上月さん」

 厳しい声に、反射的に顔をあげる。

「今すぐ返しましょう。俺、ちょっと金下ろしてくるから」
「は、羽賀さん」
「いいから。ここで待ってて」

 そう言うや否や、制止を軽く流しながら立ち上がって消えていく背中に頭を掻いた。

「……はあっ」

 結局、その日の内に有り金という有り金は全額なくなり、新たな借金は出来たものの、頭を抱え苦しんでいたヤミ金からは逃れることが出来た。

「いやーめでたい。今日はたくさん飲みましょうね」

 お金をおろすのに流石にジャージでは銀行に行けなかったのか、戻ってきた時にはピシッとした背広を纏い軽々と大金を持ってきた人が、緩く笑う。

 たった今、全額を返済した祝いだと帰り道に惣菜屋でつまみや飯、更に酒屋でとても俺みたいな庶民には手が出せない立派な瓶を、まるで駄菓子を買うように彼が購入した時、住む世界が違うと改めて思い知らされた。

 目の前に並ぶ食べ物に箸をつけながら、どこかでやっぱり萎縮して。それでも注がれる酒を飲み干せば、値段と釣り合うまろやかな味で煽る手が止まらない。

「すっげえ美味いですね、これ」
「でしょう。普段あんまり見掛けないから、帰りに目に入った瞬間奮発して買っちゃいました」

 結局強引に借りてしまった大金。その罪悪感を和らげるようにおどけてみせる彼の優しさが痛いほど伝わってきた。

「……羽賀さん」
「はい」
「俺、必ず返しますから。絶対に」

 この酔いが回りきってしまう前に、告げておきたい言葉を吐き出した。

「分かってますよ。あなたは真面目だから、なにも心配しちゃいません」
「本当にありがとうございました」
「もういいからさ。ほら、飲んで飲んで」

 俺のコップに酒を満たすだけで、マスクも取らないまま器用に飲み食いをする姿。それを横目にどんどん喉を通る日本酒。

「明日も休みですからね。酔い潰れちゃってくださいよ」
「そ、そんな……あっ、俺も注ぎます!」
「あらま。ありがと」

 それから時間の経過と共に、回りだしたアルコールに乗せてぐらぐらと揺れる理性。

 カチリとお猪口と小皿が当たる音が鳴った時、縁から零れた酒が指にかかって、それを直ぐ様舐め取る。

「それでね、俺っその時もうおっかしくて!」

 浮わついた頭ではなにも考えられず、相手の反応も見ないままひとりで昔の話をしてケタケタと肩を揺らす俺を微笑んだまま見詰める人の隣へと、向き合うようにしていた場所から不意に移動した。

「ど、どうしたの?」

 肩がぴったりとくっ付く距離で顔を寄せれば、少し引いた体。それもそうだろう。同じ男にこんな距離で密着されたら誰だって気分はよくない。

 それでもこの状態を崩さないまま、秘密話をするように小さく囁いた。

「……実はね、俺。彼女のこと気になってたんですよ」
「……彼女?」
「ええ。俺の部屋をすっからかんにした子です」

 今朝は言えるような空気でもなかったことを、素直に自然と吐露していく唇。

「言ったでしょう。俺好みだって。出来ればお近づきになりたかったし。だから昨日は、すげえチャンスだって思って嬉しかったんですよ。恥ずかしい話」

 本当に情けない出来事。久しぶりに素敵な恋ができそうだと思った自分が馬鹿みたいに思える。

「あんないい子が、俺みたいなのに振り向いてくれる訳ないのになあー。あーあ、本当にやっときゃよかった。もう絶対あんなチャンス来ませんよー」

 こてんと、ちょうどいい位置にある隣の肩に頭を預けてから、すぐに後ろへ体ごと倒して横になる。
 熱くなった頬を冷やしてくれる畳の心地よさに目を細めれば、襲ってくる眠気。

 でもまだ眠りたくなくて、ゆらりとまた上体を起こす。

「あっ、そういえば思い出しましたけど、羽賀さん院生時代にはすごい遊んでたんですよね〜。いいなあー、華々しい。お話聞かせてくださいよ〜」
「んー? 聞いて楽しくなるようなモンじゃないですよ」
「またまた」

 すっかり食べるものもなくなった狭間で、飲みもせずにっこり笑うだけの横顔を覗き込んだ。

「頭もよくてモテるなんて狡い。羨ましいですよ」
「そういう女とは所詮体だけの関係です。俺の人間性でモテてる訳じゃありません。ほら、みんなブランドの名前がついた物が好きでしょう? それと同じ。学生の頃はまだしも、今はからっきしです」
「ブランドがあるだけいいじゃないですかあ。俺なんてノーブランドですよ? 無名の三流品です」
「ふうん。俺はそう思わないけど」

 さらっとこっちを持ち上げてフォローしてしまう唇が、どこまでも人格者であることを誇示するように動く。それが憎くて、口を尖らせた。

「今でも事務の女の子にはモテモテですよ。選り取りみどり」
「顔も名前も知らない女に好かれてもねえ」
「かーっ! もうっ! 俺もそんなこと言ってみてえ! って感じです!」

 いくら酔っていても敬語を崩さない俺を、隣の人はおかしそうに笑った。

「ははははっ。上月さんは不特定多数と関係を持つよりも、ひとりの人を大切にってタイプでしょ?」
「そりゃーそうですけど!」
「いやあ、今日は飲ませ過ぎましたかねえ。まあいいや、アンタ楽しそうだし」
「はいっ、楽しいですよお」

 怒りも悲しみも喜びも、なにもかもが一瞬にして変わってしまう夜。

「……ねえ」
「はい?」

 さっきまでの会話も全く水に流して、また新しいものにすり替えられていく事も気にならない。

「俺の顔、見てみる?」

 不意にグイッと近くまで寄せられた眼差しに、何度か瞬きを返してから、またへらっと口元が緩む。

「そりゃあ見たいですけど。いいんですか?」
「いいですよ。あなたになら」

 だけどなんの躊躇もなく、ずっとその顔を覆っていたマスクに手を掛けたのを視界に映した刹那、自然と消えていく笑み。

 指を引っ掛けて、ゆっくり下げていくと同時に垣間見えたその素顔に、今まで当たり前のようにしていた呼吸が止まった。






[←前|次→]
[←戻る]