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[かなりヤバいオトコ]
前河敦









 寝癖も酷いまま扉を開ければ、案の定疲労の色を滲ませた男が当たり前のようにずけずけ中へと足を踏み入れてきた。

「……お前、なんで日曜にスーツなんか着てんだ」
「ちょっと、俺を褒めてよ……」

 初っぱなから全く噛み合わない会話に、頭を掻く。

 もはや週に1度か2度、この男が勝手に現れては感情のままに振る舞い転げ回ることは日常になっていた。

「一睡もしてないんだ……昨日」
「なんでだよ」

 あーあとあくびをしながら洗面台に向かって、冷水で顔を締める。居間でいじけたように胡座をかいた羽賀は、本当に疲れ果てたようにため息をついた。

「ホント、俺頭おかしいわ……」
「今さらだろ」

 お前の頭がおかしいなんてそんな昔から分かりきった理由で日曜日の朝に起こされた俺の気持ちも考えろ。そう口には出さず煙草に火をつけた後も、ボソボソとマスクの内側で話す声は続く。

「昨日、色々あってあの人の家に上がって、酒飲んだんでそのまま泊まってったんだけどさ……」
「いきなりお泊まりでオールかよ。レベル高ぇなオイ」
「茶化すな。もう最初なんて酷かったんだから……」

 この男はどれだけ疲れていても、基本的に表には一切出さない。とすればまさに今は異常事態の危険信号が眩しいほど点滅しているといってもいい状態。
 こりゃあ話が済むまで静かに聞いてやった方がよさそうだな。白い煙を口から吐き出しながら、なんとなくそう悟る。

「色仕掛けに嵌まって、家に上げた女に一晩で家荒らされたっつーから行ってみたら、案の定部屋はぐっちゃぐちゃのすっからかん。あの人は放心状態だし……」

 人を心配するような口調と、女に対する嫉妬が入り交じるようなその声音に舌打ちが追加される。

「流石に状況分析するためにちょっと話聞いたらさ、『あんな美人にキスされて家に上げない男はいない』なんて言って。はあ? キス!? 俺がこんなにやきもきしてる中、素性も知れないような女を家に上げて!? いいねえ女は簡単に男に近付けて! はーっ、想像しただけでイライラする。態度には出さなかったけど」

 もはや、コイツが言っていることは支離滅裂だった。
 部屋中ひっくり返されて放心した好きな奴を心配するでもなく、警察に電話するよう勧めるでもなく、まずは男ならみんな弱いといってもいい色仕掛けにまんまと嵌まってしまった事務君と騙した女に怒りと嫉妬の嵐。
 自分勝手もいいところ。

「なにに嫉妬してんだか……」
「全部だよ。特に女。捻り潰したいね」

 女だからって理由であの人に簡単にキス出来るなんておかしいだろ。
 そう悪態をつくお前の台詞の方がはるかにおかしい。内心そう呟いて、穏やかに先を促した。

「それで?」
「まあ、肝心なことはヤってないって言うしなんとか全部聞き流したよ。その後は俺の正体がバレて部屋片付けて色々あって酒飲んで顔見せてあの人は寝落ちたんだけど……俺は寝れなかったね……」

 毎回当たり前のようにコイツは色々と話を省略するが、今日はまた一段と酷い。正直気になるワードのところが全て簡略化されている。

「……オイ待て、お前、バレたのか?」

 ついさっき黙っていると決めたのに、もう思わず口を挟んでしまった。

「ああ、バレたよ。お前のことも俺のことも」
「なんでバレた」
「さあね……あの口ぶりからすると誰かになにか言われたっぽいけど。まあそんなことはどうだっていいよ。とにかくスゲエ剣幕で謝ってなんとか許してもらった」

 どうせいつかは知られることになった事実。一番の修羅場になると思われたその出来事をさらりと端に寄せるくらいなんだから、昨日は相当濃い1日だったんだろう。

 いや、それよりも後者に控えるあの言葉が気になりすぎて、聞かずにはいられない。

「んで、正体がバレたが許して貰えて、部屋を片付けた……」
「まあね。警察には通報したくないって言うし。流石に荒らされ放題の部屋を放置で帰れないでしょ」

 自宅に居る時は四六時中ついているテレビは、朝のニュースを映している。

「んで、片付けた後にも色々あったと」
「あったけど、これはあの人のプライベートだからナイショ」
「分かった。で、酒飲んだあとに……お前、顔見せたのか?」

 長い長い前置きを経て、ようやくたどり着いた本題。
 これは正直、どんな内容よりも遥かに気になる。

「ああ、見せたよ」
「で、反応は」
「すごい悲鳴上げて後ずさってた」

 その台詞を聞いて、えらい反応だなと呟けば、羽賀は自分を皮肉ったように笑った。

「俺は狡い男だよ……。怖かったんだ。正気も保ててないような酔っ払いにしか、怖くて顔を晒せなかった。相手が酔ってたら誤魔化せるけど、素面じゃ流石に気まずいからねえ」

 俯き、弱々しく頭を掻く仕草。自分の顔にコンプレックスを抱いているというのは本当だったのかと、そこで改めて痛感した。
 ただのマスクの下に隠した、羽賀の暗く深い闇。それを見たあの男が悲鳴を上げて後ずさったというんだから、きっとよほどのものだったんだろう。

「俺は悲鳴を上げたりしないぜ」

 至極真面目に、くわえた煙草を揺らしながら真正面に座り込んで前を見据えれば、意味深な笑みを浮かべているのであろう目元が悪戯に細められる。

「そんなこと言ってもお前にゃ見せないよ。あの人と約束したから。俺の顔は誰にも見せない。絶対に」

 千載一遇のチャンスだとばかりに切り込めば、それをあっさりと交わされる。
 ったく、なんつー厄介な約束を……。
 この時ばかりは暑苦しくも真っ直ぐな瞳をしたあの男に、苦々しく舌打ちをした。

「どうやら俺はマスクを外したら余計目立つらしいから」
「けっ! 見せねえなら思わせ振りなこと言うんじゃねえ!」

 見れないとなればもうこの話はいい。気にならない訳じゃないが、約束とやらをしたのならコイツはもう本当に誰にも見せはしないだろう。だったら先に進んだ方が話も早い。

「んで、その後はどうして寝れなかったんだ?」

 怒っていた顔がいつの間にかにやけている辺り、どうやら顔を見せたことがマイナスになった訳じゃなさそうだ。

「いやーなんか、あの人も酔っ払ってたからだろうけど……すごくいい感じにイチャイチャ出来てさあ」
「……オエッ」

 反射的にこみ上げる嗚咽と眉間のシワも気にしないまま、俺を置いて悦の世界へ浸る男。

「かーっわいかったなあ……」
「……どうにかなるつもりは無いんじゃねえのか?」
「ないよ。友達でいい。イチャイチャっつっても俺が勝手にそう思ってるだけだし」

 あの人を困らせて気持ち悪がられるくらいなら死んだ方がマシだね。
 そんな言葉を発して、つまらなさそうに外を見る横顔に目を細めた。

「最初から、独りよがりでどーしようもない感情だから」

 それはいつものようにどこか冷めていて、現実的な口調。

「……でも。それでもどこかで、頑張ってれば、いつかとんでもない間違いが起こるんじゃないかって……期待してんだよねえ。バカでしょ」

 苦し気に目を伏せたあと、はあとため息混じりで力なく笑う声。何故それほどまでに本気なのかと聞くなんて、もはや野暮なことのように思えて灰皿に煙草を押し付けた。

「魔が差したとか、顔が好きとか、寂しいとかなんでもいいから……うっかり俺になびいてくれないかなあ……」

 細い煙が手元で上がる向こう側で、すっかり頭を抱えてちゃぶ台に上体をうつ伏せる羽賀の髪が揺れる。
 コイツの気持ちは至って正常な「恋」の反応に似ていた。
 友達のままでいいと思っている反面、近付けば近付くほどやっぱり相手と両想いになりたいという期待も捨てきれない。その相手が異性であれば、まあ頑張っていれば可能性は見えてくるだろうが、コイツの場合は限りなく厳しい。

「ないよねえ……今のところドノーマルだもんなあの人……」


 どうしたって八方塞がりになることは目に見える展開に、やっぱり静かに相づちを返すことしか出来ない自分に苦虫を噛むような思いだ。

「……けど、こんな顔を男前って言ってくれたのはせめてもの救いだったよ」
「……男前?」
「ああ、まああの人の感性にたまたま合っただけだろうけど。俺は男前なんだって。ぷはっ、やっぱ笑えるわあの人の言うことは」

 コイツの素顔は見たことがなくても、雰囲気は確かに男前だと思う。目元しか見えていないが堀が深いのも分かるし、マスクの下から感じられる大まかなシルエットからして鼻も高い。
 なら、あの事務君が悲鳴を上げたのは、羽賀があまりにも男前だったからか……?

 そこまで考えて、思わず失笑した。
 いや、流石にこれで本当に男前だったりなんかしたら冗談にならない。羽賀が完璧人間になってしまう。まあ、こういうプライベートを除けばの話だが。しかも悲鳴を上げるような男前なんてどんなだ。酔っ払っていたにしても反応が大袈裟だろう。

「男前過ぎるからマスクを外すなってか? 世辞にしてもまたえらいことを言い出すモンだな」
「だよねえ。でも、あの人と秘密を共有してると思ったら幸せだよ」

 それにしても悲しんだり、フフフと目を細めたり。全く忙しいやつだ。

「で、話はだいぶ逸れたが、なんで寝れなかったんだ」

 またクダグタと片思いの奴の妄想混じりなおのろけ話なんて聞かされる前に、先を促しながら新たな煙草に火をつける。

「あーそうそう。それがもう昨日一番の大失態。最悪。死にたい」

 よくよく見なくともコイツは何故か上質なスーツを着ている。たかが事務君の家へ遊びに行くのに気合いを入れすぎだろう。それともまた別の事情でもあってその服装になったのか。

 顔の一件も過ぎて、正直他の話なんて至極どうでもよくなっていた頭で聞き流すことに徹しようと深く肺まで煙を満たした刹那。

「はは……寝落ちしたあの人の為に布団敷いて寝かしてあげたすぐ隣でさ……自慰しまくっちゃったんだよねー……」
「ぶふおっ……!?」

 聞こえた台詞の意味を理解した時には、噎せ返っていた。

「ごほごほっ! かはっ!」
「いや、なんかもう……豪快なイビキとよだれ垂らす寝顔にさ……興奮しちゃって……」

 またもやうっかり想像してしまった、あまりの悲惨な昨夜の残像に鳥肌を擦って後ずさる。

 あり得ない。よだれ垂らしてイビキをかいて寝る野郎なんて簡単に想像できる。きっと寝汚く酷く間抜けな面だ。それを性的な目で見て興奮するだけでも異常だが、更に本人がすぐ隣にいる状況で寝顔見ながら自慰なんて文字通りコイツは変人だ。いや、本当にヤバい。

「テメェ……!頭イカれてんだろ!?」
「俺だってそう思うわ! ハァハァ言って抜いてる時に目でも覚まされてみなさいよ!? 変態以外の何者でもないでしょ!? ああおぞましい! 勢いあまってあんな事が平気で出来ちゃう自分が心底怖い!」

 うおおおとまた高そうなスーツにシワをつけながら畳の上を転がり回る異様な姿に、引きつった顔がおさまらない。

「お前がそんな変人だってよくバレねえな……俺はそっちの方が奇跡だと思うぜ……!」
「そこはアレでしょ……俺の鋼の理性で押さえ込んでんでしょーが……」

 毎回のことだが突っ込み所と沈黙すべき所とが重なりすぎてどう喋ればいいか言葉の発し方を迷う。

「……はーっ。お前の話は聞いてて疲れる……」
「話してる俺はもっと疲れてるよ……」

 せっかくの日曜日だというのにどうして自分はこんなに朝からくたびれているのか。

「はあ……ちゃんと友達のままで居られるかなあ……」
「知らん、俺に聞くな」

 確かにこの話を聞いているぶんには相当危ないだろうが、聞き役以上に踏み込むまいと一線を明確にして今度こそゆっくり煙を吸い込んでは吐き出した。

「あのなあ……今はあの坊やも独りモンだからいいが、いつか女のことについて恋愛相談されたらお前耐えられんのか?」

 それに肩だけ少し跳ねさせて、直ぐ様脱力した男はただぐったりと項垂れて相変わらずモゴモゴと話す。

「耐え……られる。いや、耐える」
「嘘つけ。間接的に女の話聞いただけでも嫉妬に狂ってるような奴が」
「今日のはアレ。急だったから心構え出来てなかっただけ。いざとなったら聞ける」
「そうかよ」
「だって、そうなったらもう俺には他にどうすることも出来ないじゃない」

 それを最後にプツリと途切れた会話と、異様に静かな空気。
 そう。コイツの恋の最後に待っている結末はコレだ。
 なのに思い続けるだなんて、効率も悪いしはっきり言って愚策。それでもやめられない。
 苦しいだろう、悲しいだろう、ツラいだろう。

「……はあっ」

 お前は完璧に恋を患ってるよ、羽賀。

 それもお前と同じくらい悪質で、面倒な恋。

「手を引くなら今の内だぜ」

 俺は淡々と中間地点に立って、お前の感情を整理するだけ。

「テメェのやってることは中途半端なんだ。友達で居たいなら完璧に友達の域を保て。自慰は帰ってからするんだな。公私混同すんな。逆に落としたいんならもっとガンガン行けよ。相手が悲鳴上げるくらい男前な顔なんだろ? 知らねえけどよ」

 全てを煙と一緒に吐き出した刹那、向かい側で拳を畳に叩きつけた男が頭を抱えていた。

「落としに行ったって勝算なんか無いんだよ……!」

 肩についている髪がはらはらと重力へ従順に従って、羽賀の目元を遮る。表情は窺えないが、おどけた言い方が消された乱暴な口調に肩をすくめた。

「余裕がないねえ……お前らしくもない」
「あーもうっ……! うっさいなあ……!」
「嫌われんのが怖いだけだろ?」
「逆に怖くない奴が居るわけ?」

 まさかあれだけ遊び慣れた女たらしが、いざ恋をするとここまで臆病で女々しい奴だとは。

「お前、欲しいモンは力ずくでも奪ってきたじゃねえか」
「頭でしてた恋愛ごっこと今回のとじゃ訳が違うんだよ……俺あの人に気持ち悪いと思われんのだけは絶対ヤダ」
「だから、それが中途半端だっつってんだ」

 他人事の筈の恋愛話に、羽賀の人格がゆるりと絡み付く。

「なに? お前俺にどうして欲しい訳?」
「テメェがどうしたいかイマイチ俺にも分からねえからこういう言い方になってんだろうが」
「俺はどうにもなりたくない」
「そう言う割にはなんやかんやとちょっかいも掛けてんだろ」

 押し問答の続く会話。次第に緊迫した空気が漂って、ため息をつく。

「……付き合いたいよ」

 そんな中で弱々しく囁かれた声にゆっくりと耳を傾けて、目を閉じた。

「付き合いたいけど、あの人にもそういう目で俺を見てもらいたいけど……可能性なんてほぼないじゃない」
「また随分と弱気だな。あの天才羽賀郡司大先生様がよお」

 茶化しに反論する気も起きないのか、畳に横になったままうつ伏せる姿は、次に目を開いた時にもなにも変わっていなかった。

「いい面持ってんだろ? ならそれを利用しろよ」
「利用ねえ……」

 うつ伏せているわマスクだわで、全く籠って声が聞きにくいったらありゃしない。

「……確かに、俺に口説かれて落ちない人は居ないとか言ってたなあ……」
「なんだ、脈ありじゃねえか」
「馬っ鹿馬鹿しい……相手が女だったらの例え話でしょ」

 普段あれだけ飄々としているせいか、逆にここまで弱った姿を見ると背中を押すようなことばかり言ってしまう。最初は男相手に恋愛なんてと言っていたのに、俺も全く身変わりが早い。

「けど、お前の面が嫌いならそんなこと言わねえだろ。少なくとも事務クンの好みなんだろうよ、男として」
「かもねー……」

 ぐったりと横たわる情けない天才の背中に、さらに言葉の煙を吹き掛ける。

「頑張って口説けよ、いつもみたいにおどけた口調なら逃げ道も作れんだろ」
「無理無理……」

 いつまで経っても状態の変わらない男に、心配を通り越してだんだん苛々してきた。

「なーんだってそんな弱気なんだテメェは」
「だーってー……」
「はーっ……女々しいお前を見てると気分が悪くなる。俺に出来ることがあるなら協力してやるから、そろそろ起きろ」

 2本目の煙草を潰して半ばこの苛立ちを織り混ぜやけくそにそう告げた刹那、驚くほど素早い仕草でうつ伏せていた状態から起き上がった男が、今までの陰鬱さなんて消失させ、にっこりと満面の笑みを浮かべていた。

「その言葉を待ってました!」

 そしてこの時、まんまとしてやられたと背中に嫌な予感が走る。

「……テメェ」

 元気のない振りをして、自信のない振りをして。こちらの気を引きながら焦らし、目的の言葉を引き出す。コイツのいつものやり方じゃねえか。うっかりまたペースに飲まれていた。なんて奴だ。

「いやあ、お前ならそう言ってくれると思ってたよー」

 話を聞くしか支援はしない。巻き込まれるなんてごめんだと強い一線を引いていた俺を利用するために敷き詰められていた伏線に、吐き気が起きそうだ。

「あり得ねえ……人の厚意を逆手に、長々と下らねえ小芝居打ちやがって……」
「やーねー、そんなんじゃないよ」

 腐っても天才。しかも性悪。恋に溺れた人間らしい姿にすっかり油断しきっていた。

「……お前、諦める気なんて最初からなかったんだろ」

 そうだ。コイツが女々しい訳がない。

「当たり前じゃない。俺を誰だと思ってんのさ。天才変人で有名な羽賀郡司大先生様だよ?」

 なんて、なんて面倒なことに巻き込まれてしまったのだろうか。

「ま、それは冗談として。最初はね、本当に俺があの人のことを好きなだけでよかったの。でも昨日の満更でもなさそうな反応を見たら『おっ、これはもしかして俺が頑張れば、本当にとんでもない間違いが起こるかも』って思い直した訳よ」

 どこまでも計算高く、読めない男。

「これだけ好きだなんて思う人、たぶん二度と出てこないから。あの人には悪いけど、少しずつ全部の出口を塞いで逃げ道もなくして、最後にはなにがなんでも俺を選んでもらうよ。ま、厳しい戦いになるのは間違いないけどね」

 力の抜けた体で、後ろの壁に背中を預けた。

「……で、お前は俺になにをしろってんだ……」
「それはまだ模索中。けど近々動いてもらう事になると思うよ」

 全く、コイツにはいつまで経っても勝てる気がしない。

「お手柔らかに頼むぜ……」
「たぶんね」

 きっとこの部屋の扉を叩いた瞬間には始まっていた芝居と語り口の巧妙さを思い出しては、重い頭を掻くと同時に大きなため息が自然と口からついて出た。

 そしてよりによってこんな男に惚れられてしまったあの事務君には、心底同情するしかない。


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