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[優しい群青が広がる]

上月しぐれ












「上月さん」
「あっ、羽賀さん」

 何もかもを失い、散々迷惑を掛けてしまったあの日以降も、緩やかに続く関係。

「まだお仕事ですか? 精が出ますね」
「羽賀さんこそ、こんな時間までお疲れ様です」

 一気に距離が詰まったのはあの日だけで、週明けからはまたなにも変わらない日々が続く。
 俺の残業時間と、彼が仕事の上がる時間が偶然重なった時にだけ窓口で顔を合わせて、細やかな会話を紡ぐだけの夜。

「どうですか、研究は」
「お陰さまでいい感じですよ」
「それはよかった」

 お前、騙されてるんじゃないのか?
 そう言ってくれた先輩に、やっぱり騙されていましたと素直に頭を掻いて笑った数日前の眩しい昼過ぎを思い出す。
 確かに騙されていたけれど、結果的に自分は彼に救われた。感謝してもし尽くせない。

「まだ掛かりそうですか?」
「ええ、残念ながら」
「……そっか。それは本当に残念」

 一緒に帰ることを自然と促してくれた声をやんわりと断れば、薄暗くなった館内で本当にガクンと肩を落とす人に笑ってしまう。

「じゃあ、無理し過ぎない程度にね」
「はい、お疲れさまです」

 みんなが昼間にしょっちゅう盛り上がっている、彼の噂話。随分と華やかで鮮やかな過去の振る舞いと派手な功績。でもその裏では他人に冷淡ささえ漂う非情な行いをなんの躊躇もなく行ってきたんだという話に耳を疑った。

「あっ、そうだ確認なんだけど」
「ジョギングの話なら、ちゃんと覚えてますよ」
「……よかった」

 だって、俺の親友になりたいんだと笑う彼と噂が、全く結び付かないから。
 噂には尾ひれがついて回るというけれど、全くそうだとしか思えない。

「ね、具体的にあとどれくらい掛かりそうなの?」
「えっ、まあ……30分くらいですかね」
「じゃあ俺、やっぱり待ってようかな」

 何気なくそう呟くから、普通にええと頷きそうになってしまったけれどすぐにブンブンと左右に首を振った。

「な、なに言ってんですか!? ダメですよ、もう遅いのに早く帰って休まれないと……!」
「今帰っても30分後に帰っても一緒だよ」
「30分で終わるとは限りませんから……!」
「終わる終わる」

 必死で帰ることを促してもいつもの微笑みで流されてしまう。結局カウンターへ頬杖をついたまま頑として動こうとしない人に背中を押されるようにして、頭を掻きながら作業に戻った。

「最近もずっと書類渡されるの?」

 その問いが今もチェックをしているものを指しているのは明らかで、苦笑しながらまた要所要所に書き込みを進める。

「ええ、まあ。でも来たり来なかったり波が激しいですから。毎日こうって訳じゃありません」
「ならよかった」

 ガリガリと黒鉛が紙をなぞる音が心地よく耳を撫でて、静かな空気は続く。

「それにね、俺、たまに残業するのがちょっと楽しみでもあるんです」
「ええーっ、どうして? 社畜になりたいの?」

 誰かが居ることで集中力が下がるどころか、なぜかさっきまでよりも楽に作業出来ている気がした。

「違いますよ。もしかしたら今日は羽賀さんと話せるかもって思うと、残業も悪くないなって思うんです」

 こうやってあなたと過ごす、穏やかな夜が好きだ。
 素直に思ったことを呟きながら指先で次のページをめくって、視線を左から右へ流す。

「こんなこと、毎日遅くまで残ってらっしゃる羽賀さんに言うのも失礼ですよね。すみません」

 しかも作業をしながらなんて余計に失礼だ。そうは思うものの、手を止めて話す暇があれば一刻も早く仕事を終わらせようと一心不乱に手元に意識を向ける。

「……全然失礼じゃないよ。俺も必死に残業してる上月さんと話せるの、嬉しいから」
「あははっ、お互い様ですね」

 違う。背負うものの重さや責任が違いすぎて、本当はお互い様なんかじゃない。そう分かっているけれど、なるべく対等な関係を望んでいるらしい彼の為にも、口に出すのはグッとこらえた。

「ねえ、あとどれくらい?」
「すみません、もうすぐで終わります」
「んーん、違うよ。俺、アンタが仕事してる時の顔好きなんだよねえ。男前で」

 本当にほっと息をつくような優しい声音に、思わずええーっと肩をすくませて最後のページをめくる。

「羽賀さんみたいな本物の男前に言われると恐縮です……」
「俺のことそういう風に言ってくれるの、上月さんだけだよホント」

 彼はたまに腹を抱えて笑ったりするけれど、基本的には上品な紳士の態度を崩さないから、同じ男として見習うべき仕草が沢山ある。

「そりゃああなたが他の人の前でマスクを下げないからですよ」
「だって上月さんがそうしろって言うし、俺も約束したから。なのでこの顔はあなたにしか見せません」
「勿体ないことするなあ……俺なら見せびらかしてますよ絶対」

 背中を丸めて作業を続けていたせいか、酷く首が凝る。それに眉間にシワを寄せて片手でうなじを押さえた瞬間、どこか複雑な色を滲ませた音が鼓膜を揺らした。

「俺の顔は、見せ物じゃないですよ」

 それにハッと視線を窓口に向けて、募った罪悪感と共にすぐに駆け寄っては拭う冷や汗。

「ち、違うんです。不愉快でしたよね。あの、なんていうか、すみません」

 ついついデリカシーのないことを言ってしまう自分の鈍感さを嘆いて、わたわたとその場で言い訳と謝罪を繰り返す。

「すみません……」
「……いーよ、だから顔上げて。早く帰りましょう、ね?」

 笑顔のまま発されるこの冷たい声には、毎回心拍数がついていかない。

「は、はい……」
「もー、そんな顔しないで。ほら、仲直り」

 申し訳なさと気まずさに頭まで染められた時、また窓口の書類を受け渡す為に四角く空いた場所から差し込まれた綺麗な手。
 それにすがるような気持ちで武骨な自分の指先を近付ければ、向こうからガッと掴まれて握手をされた。

「はい、これで仲直り」
「はあ……」

 ため息のような返事しか出来ない俺ににっこりと笑って、彼はまたすぐに仕事を促す。

「もう最後のページでしょう、あとひと踏ん張りじゃないですか」
「そう、ですね」

 一瞬どうしてそんなことが分かるのかと思ったけれど、それよりも彼の気が変わってしまう前に早く用を済ませてしまおうと席に戻って、それから5分もしない内には鞄を担いで事務局の電気を消した。

「やっぱり優秀だなあ、上月さんは。仕事が早い」
「やだな……羽賀さんがやり方を教えてくれたからですよ」

 鍵を返却して夜風を浴びる頃にはもう気まずさは薄らいで、ゆっくりと肩を並べて固いコンクリートで作られた道を進んだ。

「蒸し暑くなってきましたねえ、今年は暑くなりそうだ」

 生暖かい風が足元から吹き上げて、頬をなぞる。その空気を吸い込みながら広い駐車場を横切って、ぽつんと左端に止まる車の助手席の扉を引きながら動く唇。

「俺、好きですよ、夏」
「ははは、アンタにぴったりだ」

 彼とほぼ同時に車内へ乗り込んで、すぐに掛かったエンジンの音にシートベルトをキュッと締めた。

「見た目でしょう、それ」
「そうですよ。でも、俺も夏好き」
「へえ、意外です。なんだか羽賀さんには、秋とか冬が似合うかなって思ってました」
「よく言われる。でも俺ね、こう見えて寒いのダメなのよ。もう冬なんか耐えられない」
「えーっ、そうなんですか。ホント意外」

 エンジンは掛かっているのにいつまで経っても動き出さない車に隣を窺い見れば、それとちょうど同じタイミングで彼がゆっくりとマスクを外す。

「……っ」

 そんな動作を見て反射的に目を反らしては、膝の上に置いた拳をじっと見詰めた。

「……さて、行きますか」

 なぜだろう。普段からずっと隠されているせいか、彼の素顔は見てはいけないものを見てしまったような、そんな気持ちにさせられて無意識に視線を背けてしまう。

 受付や飲み屋という、防犯カメラがあるような場所や不特定多数の人が居る時には絶対外されないから、そんな秘密にしているものを俺だけが見ているなんて落ち着かない。

 あの時は酔っていたからあんな軽口まで叩けたけれど、素面のままで見る彼の素顔は余計に綺麗に見えすぎて苦手だ。

 騒ぐ心臓をなんとか落ち着けて居る間も、真っ直ぐ藍色の夜道を進み続ける車。

「……おっと、いけない」
「えっ?」

 突然ボソッと低く呟かれた声に視線は向けずに問い返せば、返ってきた返事に思わずとんでもない声と冷や汗が出る。

「さっき一瞬寝てた」
「ええっ!?」
「うっそぴょーん」

 勢い余って運転席に座る人を視界に映してみれば、言葉の通り眠気のねの字もない横顔で、悪戯に笑って舌を出していた。

「もうっ……! 変な冗談やめてくださいよ……! びっくりしたあ……」
「あははっ、ごーめんね」

 だって上月さん、俺のこと見てくれないから。

 一気に砕けた空気のあと、また急に真面目な声でそんなことを言うから、うっと喉で言葉が詰まってしまう。

「き、緊張するんですよ……羽賀さんの顔を見ると……」
「どうして? 男同士なのに」
「いやあ、そうなんですけど……」
「まだ見慣れない?」

 それにこくりと頷いたはいいものの、本当に顔が綺麗なだけでなに同じ男にウジウジしてんだよ気持ち悪い。そんな風に内側から自分を叱咤する声が響いた刹那、思い切ってじっと隣を見詰めた。

「しばらくすれば慣れるよ」

 柔らかく甘く、ふふと笑うその顔が街灯に照らされる。それがやっぱり憎くなるほど綺麗で頭を掻いた。

「……羽賀さんに彼女が居ないのが不思議です」
「どうして?」
「だってこんなに優しくて紳士で、賢い人なのに。……ああ、居ないんじゃなくて、今は欲しくないってやつですよね。失礼しました」

 いっそのことはははと開き直ってみれば、案外いつもの調子を取り戻せた。それに隣の人もにこにこと前を見たまま微笑み返してくれるのが嬉しい。

「アンタは俺のことを褒めすぎですよ。そんなに出来た人間じゃあありません。それに、確かに今は研究に手一杯で彼女は居ませんけど、好きな人は居ますよ」

 ひらひらと余韻を残して振られたその話題に、迷うことなく飛び付いた。

「えっ、羽賀さん好きな人が居るんですか!? うわあ〜、どんな美人だろう。気になるなあ〜」

 とっても興味をそそられる話だ。みんなにこんなことを言ったらまた色めき立つだろう。まあ、絶対に言わないけれど。

「でも、完全な片思いだから」
「羽賀さんがですか……!? えーっ……そうなんだ……」

 相変わらず神経を研ぎ澄ませたように周囲を見る眼差しや丁寧な運転は変わらないけれど、その声は酷く弱々しかった。

「なんせ相手は俺なんて眼中になくてね」
「羽賀さんが眼中にないって……ちゃんと羽賀さんだって名乗りました?」

 こんなにも地位や名誉を手に入れた聡明な人でも、叶わない恋に苦しんでいる。何故かそんな姿にすごく親しみを持てて、純粋に応援したいと思えた。

「はははっ、うん。名乗ったよ、ちゃーんとね」
「なのに眼中にないかあ……変わった人ですねえ」
「まあ、まだ口説いてもないから眼中にないのも当然っちゃ当然なんだけど」

 綺麗な指先がハンドルを切って、少し揺られた体。その瞬間ふわりと漂ってきた羽賀さんの匂いは、清潔感あふれる香り。それが心地よくて思わず目を細めて少し近付けた鼻先。

「……なに?」
「あっ、いえ。いい匂いだなあと思って。俺好きなんですよ、糊付けされたシャツの匂い」

 わざわざクリーニングに出しているのだろうか。すごくお上品な糊の匂いだ。そうは思いながらも流石にこんな変態じみたことを続けるわけにはいかないと体を引く。


「そうなんだ。中々マニアックだね」
「ははは、そう言われるからあんまり人前では出さないようにしてるんですけど……気を付けます」
「気にしないで好きなだけ嗅いでいいよ。俺はそういうの全然気にしないし」

 そうは言っても明らかにからかうようなその口調に、頬を掻いて居心地悪く正面へと向けた顔。

「……あのさ」
「はい」

 そろそろいつものコンビニにも近くなってきた頃、もう冗談混じりの声を消した羽賀さんがゆっくりと言葉を紡いだ。

「俺、片思いって言ったじゃない?」
「ああ、はい。そうですね」

 逸れた話がまた戻された事と、その内容の興味深さに直ぐ様隣を向き直す。
 彼は相変わらず前を見詰め、少しぎこちない笑みを浮かべながら照れたように俺に語りかけた。

「その相手は今全然こっちのことなんて見てないけど、俺はその人のことがすっっごく好きだから、絶対に失敗なんてしたくないんだよね」

 こんなに凄い人にここまで言わせてしまう罪な女の人を少し想像しながら、精一杯の誠意と一緒に力強く頷く。

「だけど俺、こんな真剣に人を想うなんて初めてでさ。いまいちどう口説いたらいいか分からなくて。どうしたらいいのかな」

 その質問には、正直困った。思い返してみても俺だって好きな子を口説くなんてあまりしてこなかったし、していたとしてもなにを言ったかよく覚えていない。その時の状況や雰囲気に任せてきたとい言えばいいのだろうか、その程度だ。
 とても羽賀さんにアドバイス出来るような経験はない。

 それを誤魔化すように、あやふやな口調で言葉を選んだ。

「……んー、人にもよりますからねえ。これって方法は……。ただ、羽賀さんだったら普通に口説いたらそれだけで大丈夫だと思いますよ」


 そう言っている間にも、いつものコンビニの影に隠れるようにして止まった車にシートベルトを外して、隣を窺う。

「普通って、例えば?」
「そうだなあ……いや、俺なんかに聞かなくても羽賀さんの方がそういうこと知ってるでしょうに」
「だって、変なこと言ってあの人に嫌われたらヤダもん。それに俺、普通ってなにかよく知らなくて。ねえ、普通ってなに?」

 すっかり停止した車内にそのまま居座ってまで話をするのは、今日は初めてだ。それだけ彼は本気ということだろう。今している、恋に。

 しっかり向き合って、一緒に考えて行かなければ。友人として。

 答えを求めるように沈黙した彼の期待に応えようと、ゆっくりまぶたを閉じて、想像してみた。
 片思いしている子と何気なくこうして一緒に帰った車内。黒い髪、艶やかな肌、大きくて潤んだ瞳とふっくらとした唇。さて、二人きりの空間。どうやって口説こうか。
 そしてそこで、ふと当たり前のことに気付く。

 俺の好きな人と羽賀さんの好きな人とは、タイプが全く別かもしれない。

 そう思った途端、なにも言えなかった。

「……うーん。相手がどういう人なのか分からないから、俺にはやっぱりなんとも……」

 すると彼も俺から期待以上のものが引き出せないことを分かっていたのか、「やっぱり?」と悲しそうに首をかしげて、それからパッとなにかを思い付いた無邪気な子供のような顔をして、満面の笑みを浮かべながら綺麗な素顔を俺のすぐ目の前まで近付けた。

 そのあまりに完璧すぎる整った顔に、思わず運転席からズイッと出てきた体とは反対側へ逃げるように自分の上体を引く。


「じゃあさ、俺が今から上月さんをその人だと思って口説いてもいい?」

 今にも唇が触れそうな距離。至近距離で発されたその言葉の意味を理解した瞬間、自分でも間抜けだと思うほどすっとんきょうな声が出た。

「……はいっ!?」
「なにか変だったら言ってよ。ね? いいでしょ?」
「いや、俺なんか口説いても意味ないでしょーが!」
「でも練習しないと俺不安なんです! お願いっ! 一生のお願い!」

 これはなんて訳の分からない状況なのか。こんな男を相手に口説く練習がしたいと、あの天才と言われる羽賀さんが拝み倒している。

「お、俺で本当に練習になるんですか?!」
「なるなる! 超なっちゃう!」

 それはもう見ているこっちが驚くくらい必死に、顔の前で両手を合わせ拝む姿に呆然とするしかなかった。

「ねえ、お願い……お願いだから」

 ここまで口説く練習をしたいなんて、本当によほどの恋なのだろう。

 彼を、支えてあげたい。

 自然と沸いてきたそんな彼の幸せを願う気持ちと、なんとしてでも成功させてあげたい恋に、人のことだというのにやる気がめらめらと燃えてきた。
 久しぶりにこんな純粋で前向きな情熱を感じたせいか、肯定の意を発する声にも熱がこもる。

「……分かりました! そこまであなたが悩んでいるなら放ってはおけません! 俺でよければじゃんじゃん使って口説いてください!」
「うわっ」

 拝むように合わされたままの綺麗な両手をグッと握り込んで、自分にも気合いを入れていく。

「絶っっ対に羽賀さんの恋を成功させましょう! 俺、めちゃくちゃ応援しますから! ねっ!」

 さっきとは逆に、俺の勢いに押された彼が後ろへ引くように上体を反らす。

「は、はあ……ありがとうございます……」
「じゃあ、はい! どうぞ口説いてください!」

 ドンと助手席で男らしく胸を張って構え、真っ直ぐ綺麗な顔を見詰めて更に両手を広げた。

「どうしました! さあ、早く!」

 ここ数年、こんなにも明るく前向きな自信や気持ちがみなぎったような時があっただろうか。いや、ない。今ならなんだってポジティブに受け流して的確なアドバイスだって出来そうだ。

 だけど彼はそんな俺を呆然と見詰めて、顔を少し引き吊らせたまま何故かぽりぽりと頬を掻いて、呟いた。

「あ、あのー……」
「はい!?」
「そんな自信満々で、しかも男らしく構えられると……口説きにくいんですケド……」

 その言葉にようやく客観的に今の設定された状況を思い出して、そりゃあこんな男丸出しな俺のままではさぞかし彼も口説きにくかろうと、慌てて苦笑いをしながら頭を掻いた。

「で、ですよねー……! はははっ、いや、すみませんどうも……ちょっとはしおらしくした方がいいに決まってますよね! 待ってください、仕切り直しましょう!」


 ……恥ずかしい。なにを本人より熱くなっているんだ。落ち着け、俺。

 ひとり呼吸と頭を落ち着けている間にも、羽賀さんはさっきまで外していたトレードマークの白いマスクを再び付けながら、真っ直ぐ前を見据えていた。

「上月さん」

 黒の闇に消えてしまいそうな夜の中、無音の車内に軽く間延びしたいつもの声が響く。

「はい?」
「じゃあ今から本気で口説きますので、よろしくお願いしまーす。あっ、今日は初日だからポジティブに両思い設定でお願いしますよ」

 軽いウインクと一緒にそう告げられて、半分笑いながら「分かりました」と返事をするや否や、言葉がなくても分かるほど、一瞬にして変わった空気に背筋が固まる。

「…………」

 それは、全身に強く染み込むようなあの独特な緊張感。
 お互いそれなりの距離があるのに、心拍数が高まるのを止められずに全身から汗が滲む。

『上月さん』

 さっきまでの気さくな羽賀さんは、もう隣には居なかった。

「……今日はありがとうございました」

 引く真剣な声で前を見たまま囁いた彼の手が、コンソールボックスに投げ出されていた俺の手にゆっくりと重ねられて、肩が跳ねた。

「……っ」
「楽しかったです。あなたと帰ることが出来て」

 彼も少し緊張しているのか、冷たい印象のあった手が今はやけに温かい。
 そんなことで頭を誤魔化すことでしか、正気を保てなかった。

「……ねえ、俺を見て」

 不意に片手を俺の頬に伸ばしてきた人が、綺麗な指先で俯いていた視線を導いていく。

「恥ずかしい?」

 マスクの奥で堪えるように笑われて、カッと熱くなる顔。

「赤くなって、可愛いね……そんな顔されると、帰したくなくなっちゃいます」

 まるで本当にこの人に口説かれているような錯覚に陥るほど、真っ直ぐ甘く絡まる視線から逃げたくてこの狭い空間の中後ずされば、運転席から乗り出された上体。

「どうして逃げるんですか」
「うあ……」

 どこにも逃げ場がないから、弱々しく目の前まで迫った肩を押して、情けないくらい熱くて全身からじんわりと肌を湿らす汗を押し留めようと必死になればなるほど、間近にあるシャツについた糊の匂いに頭が回る。

「ほら、怖くないから」

 頭を優しく撫でられて、ますますうるさくなる心臓。どうしたのだろう。完全に自分が女性になっているような錯覚に陥ってしまう。

「……ねえ、俺の顔が見たい?」

 まるで子どもをあやすように、深くお互いを知り尽くした恋人へ囁くように。甘い砂糖菓子のような声音と指先に促されて視線をあげれば、すぐ目の前にあの色素が薄い瞳があって、じっと見詰め合う。

「ねえ……見たいんでしょう?」

 あまりに優しく問うから、その声にほだされるように頷いた。

「嬉しいよ……俺を見てて」

 大してなにもされていないのに、軽く上がってしまっている息。
 弱々しい月光に照らされた素顔は、やっぱり綺麗で、なのに男らしいから胸の高鳴りが最高潮に達した。

「どう? 気持ち悪い?」

 やばい。やばい、どうしよう。
 切な気にすぐ目の前で囁く彼の指先と自分の手が絡められて、全身まで真っ赤になっていくのが嫌でも分かる。

 声の代わりにブンブンと左右に首を振って意思を伝えれば、にっこり笑った彼が嬉しそうに鼻先がくっつく距離まで顔を更に詰めてきたから、反射的にぎゅっと目を閉じた。

「…………っ」
「好きです、俺を見て」

 ぐりぐりと甘えるように額同士をつけてじゃれ合うような時間に頭が麻痺してきたのか、薄く目を開けば相変わらず綺麗すぎて息を飲む芸術品のような顔がそこにあって、何故だか泣きそうになる。

「そんな顔しないで……好きなんです……」

絡めていた指先をゆっくりと口元まで運んだ人は、慈しむように俺の手に口づけを落とす。

「……ねえ、俺と付き合ってください。好きなんです、あなたが」

 熱くて甘くて、深い吐息。それにとんでもない口説き文句が乗せられていく。

「もうあなたしかいらない。あなたしか見えない。だからお願い。俺に、落ちて」

 告白の練習に付き合うだけなのに、まさかこれだけ自分の全身が熱くなるほど照れるなんて、思いもしていなかった。

「あなたも俺のこと、好きって言って」


 俺に向けられている訳じゃないと分かっているのに、この熱意に当てられてしまう。

 苦しい。早く終わらせてしまいたい。

 そうしないと、俺がまずい。

「……き、です……」
「はい?」
「お、わ……私も、好きです……」

 告白される人の性別にならって、すぐ「私」とかろうじて言い換えたものの、もう汗が止まらない。

「……あなたも、俺が好き?」
「は、はい……っ」

 空想の口説き練習なのに、彼は本当に幸せそうに笑う。

「そっかあ……嬉しいなあ」

 はにかんだように笑いながら頭を掻いて、ほんのりと頬を染めるその顔にまたしても見惚れていれば、ふと最初のように真剣な眼差しに戻った彼が指先を動かした。
 俺の髪を撫でていた手は滑るように耳まで移動して、頬を包む。

「……ねえ」

 まただ。またこの空気だ。甘ったるい恋人同士のような、初恋の果実をかじったような。色んな緊張と恥じらいと思い遣りがぐちゃぐちゃに混ざって、息が出来ない。

「……キス、してもいいですか」

 今にも本当に唇が触れ合いそうな距離で囁く声に、頭がやんわりと溶けてなにも考えられなくなりそうだ。

「キスしたい……」

 どうして俺に、そんなこと言うんですか。そう言いかけてすぐに全てを飲み込んだ。

 そうだ。なにも羽賀さんは俺を口説いているんじゃない。しっかりしろ。なに馬鹿なこと考えてんだ、相手は同じ男だぞ。俺はこの練習にちゃんと付き合わないといけない。それが役割、いや仕事だ。
 告白を受けながらも冷静に、客観的に状況を理解していなきゃいけないっていうのに、ただただ感情的になってどうする。

「……」
「……いいの? なにも言わないなら、するよ」

 両思い設定なら受け入れる筈だ。そう判断してぎゅっと目を閉じれば、すぐそこまで吐息が近づく気配を感じて、やっぱり反射的に体が跳ねる。


 そしてそのままなにも起こらない時間が続いたかと思えば、突如緊張感を切り裂くようないつもの間延びした声が耳を貫く。

「……ね、どーだった?」

 その変わりように、また唖然としてしまった。

「え、あ、はあ……」
「いやあ難しいねえー、こんな真剣に口説くなんてしたことないからやっぱり慣れないよ」

 だけど、終わったのか。そう思った瞬間全身から力が抜けて、今までどれだけ自分の体ががちがちに強張っていたのか痛感する。

「ねえね、それで、どーでしたか? 俺」

 全く、あれだけ手慣れたように口説いておきながらまだ慣れないなんて、末恐ろしい人。

 ずるずると力の抜けた背中をシートにもたれさせれば、何故か腑抜けたような笑みがこぼれた。


「はは、ははは……」
「えっ? 笑うくらい変だった……!?」

 抜けきったまま、力が全く入らない。

「い、いえ……あんまりに完璧でしたから、びっくりしちゃって」

 それを見た彼は目を丸くして、ぱちぱちと音が鳴りそうな瞬きをしたあと、次の瞬間にはキラキラと周囲に光が散るような笑みで笑った。

「本当!? 俺、いけるかな?」
「絶っっ対、大丈夫ですよ。あわよくばアドバイスしてやろうなんて思ってた自分が間抜けに思うくらい。男の俺でもヤバかったですもん、ホント。女性だったらイチコロです。自信持ってください」

 そう言いながら今でも呼吸を整えて、薄く笑みを返す。

「だといいけどなあ……。今日みたいに両思いなるって可能性も低いし。明日は振られること前提でやってみよう……」

 顎に手を当てて唸るようにそう呟いた横顔と深まっていく青の闇に、意識ごとくらりと揺れる。

「えっ!? 明日もするんですか!?」

 いや、普通ならば絶対今日の口説きで落ちる。これで落ちないなんてそれこそとんだ器を持った人間だ。
 そう信じて疑わない頭に、直ぐ様重い声が降り注ぐ。

「……言ったでしょう。俺、絶対に失敗したくないんです。だから思い付く限りの色んな可能性を今の内に全部試して、反応を見ておきたい」

 羽賀さんがここまで慎重になっているなんて、これは惚れた相手も彼に劣らず相当な天才で賢い女性に違いない。そう思えば、全ての言動に納得がいった。

「わ、分かりました……じゃあ俺も出来るだけ羽賀さんが思う方の反応と合わせたいので、どんな性格かだけ教えて頂いてもいいですか」

 成功するその最後の時まで見届けて、応援したい。
 こんな練習に付き合ったのだって、相手が彼だからだ。もし同僚なんかに同じことを言われたら真っ先に断っていただろう。
 俺が出来そうな事があればなんだってしてあげたい。彼の優秀な遺伝子は、後世まで残されていくべきだ。そしてなにより、幸せになって欲しいと思う。

「そうだねえ。あの人は……真面目かな」
「真面目……」
「ええ。それでとっても優しいの」

 ハンドルに両腕を乗せて更に上体を預けた彼の横顔は、想い人を思い出しているのか、酷く幸せそうな笑みを浮かべている。

「ああ……あの人のこと考えてるだけでこんな顔になっちゃう。気持ち悪くてごめんね」
「いえ、なんだか羨ましいです。そんなに思うことのできる人が居るって……幸せだろうなあ」

 何気なく、だけど心の底から呟いた本音の塊は、他の無意味な言葉とまるで変わらない音程や大きさで消えていく。
 その証拠に、俺の言葉に軽く相づちをしただけの人は、もう次の話へと楽しそうに移行した。

「ねえ、手、見せてください」
「手?」
「はい。俺、手相見るのが好きなんです」

 この人の動作はまるで流れ続ける水のように滑らかだと、いつも思う。

「……いいですよ」

 大人しく右手を差し出せば、そっちじゃなくてこっちだと反対の手を取られて、体ごと彼の方を向いた。

 それからしばらく無言のまま、真剣な表情でじっと俺の手のひらを見ていた羽賀さんがようやく顔を上げた。
 それも、とてつもなく綺麗な笑顔を浮かべて。

「よかったですねえ」
「えっ? なにがですか?」
「来年の今ごろには、上月さんにとって大切だと思える相手がもう居て、その人と幸せにしてるだろうって出てますよ」

 普段手相や占いなんてあんまり信じる方ではないのに、何故かこの人に言われると素直に信じてしまいたくなる。

「本当ですか!? 嬉しいなあ。手相でそんなことまで分かるんですね!」
「まあね。俺のはよく当たるって噂だから、期待しといてください」
「はい!」

 明るく返事をして、長居し過ぎてしまった車から降りる。

「今日は本当にありがとう」
「いえいえ、お力になれたならなによりです」

 今さらになって少し照れたように笑う彼に、軽く笑い返した。

「羽賀さんなら絶対に大丈夫ですから。頑張ってください!」

 ファイト!と恐らくこの暑苦しい顔の額にでも書いてあったのだろう。彼はまた瞬きの回数を増やして苦笑した。

「は、ははは……そだね……頑張るよ……」

 最後まで、点滅した交差点を曲がっていく車体を見送って一息つく。

 人の恋話を聞いたせいか、自分までなぜか胸がそわそわとした。













「なあ、知ってるか? 羽賀さんの論文、とうとう完成したんだってよ」

 1日明けた金曜日。事務局ののどかな昼休みがそんな声にどよめき立つ。

「ええーっ、とうとう? すごいなあ」
「これが学術誌にでも掲載されてみ? たぶんメディアが大騒ぎだぜ!」
「と、いうこーとーはー」
「記者会見で羽賀さんの顔がみられる! かも!」

 キャーッと、端で黄色い声を上げた女性陣と好奇心旺盛な男たちに、前の席に座って白米を書き込んでいた先輩が呆れたように口を開いた。

「お前ら元気だなあ……」
「だって先輩! 羽賀さんがどんな人か気にならないんですか!?」
「そりゃあ気になるけど……どこぞのアイドルじゃあるまいし。あんまり期待し過ぎるなよ。羽賀さんはただの研究者なんだぞ」

 至極当たり前でとても的確な言葉に、何故か俺まで深く頷いて納得してしまう。

「はーい……」
「まあそうだれるなって。水差すつもりはないから、そういうのは職場以外ではしゃげ、な?」

 優しく、かつ大人な対応。やっぱり尊敬できる。俺もあの人のような男になりたい。

 そうは思っても先輩とはずいぶんかけ離れた今の自分に頭を掻きながら、コンビニ弁当を頬張った。

「…………」

 それにしても、偉大な研究と恋愛をうまく両立させてしまうなんて、すごい人だ。
 ここでは研究者としての羽賀さんの話ばかり耳に挟むけれど、一体あの人たちはどういう場所からそんな情報を仕入れるのだろうか。

 まあ、いいか。
 考えても仕方ないそんな噂話の発信源探しは直ぐに横へ放り投げて、お茶と一緒に飲み込んだ。

 でもそんな噂のおかげで、何故羽賀さんから「今日は定時に上がれそうです」とメールが来ていたのか、その理由だけは分かった。今まであんなに毎日遅くまで残っていたのは、論文を書いていたからか。
 そしてわざわざ連絡が来ていたという事は、一緒に帰ろうという誘いを受けているんだろう。
 そう察したからには自分が残業をする訳にはいかなかった。せっかくの貴重な定時上がりの週末。羽賀さんには少しでもゆっくりしてもらいたい。

「真面目だなあ上月は。俺も見習お。さあ仕事仕事」

 ボソリと、賑やかだった会話を終結させるために呟かれたのであろうそんな台詞に居心地悪く背中を丸くして、頭を掻く。

「……ふーっ」

 それから午後の業務も滞りなく流れて、目標を達成した。

「お疲れさまです」
「おー、お疲れ。定時か、珍しいな」
「いやあ……体調が悪くて……」
「早く治せよ」

 その気遣いにへへへとぎこちない笑みを浮かべて、素早く扉を抜けて駐車場へ走った。
 いつもがらんとした夜の駐車場しか見ていなかったせいか、まだぎっしりと色とりどりの車が並ぶ隙間を通り抜けて、彼がいつも止めている場所へ辿り着く。

「……はあっ」

 まだ羽賀さんは車内にも居ない。よかった。待たせることはなさそうだ。

 夏の日差しに刻々と近付いている光の強さ。それを全身で浴びながら、そういえばあの日以来走っていないなと脳裏に過った刹那、彼女とたった一度だけ交わした口付けを思い出す。

 ……柔らかかったなあ。
 キスなんてしたのは、久しぶりだった。例え俺の家に上がるための策略の一環だとしても、未だにあの子を思うと責める気にはなれない。

 元気にしているといいけど。
 親父の形見を盗まれた相手なのに、どうしてこんなに穏やかな気持ちでそんなことが思えるのだろう。馬鹿な男だな、俺も。

 ゆっくりと自分の唇をかさついた指先でなぞって、ため息をついた。

「……欲求不満かよ」
「へえーっ、欲求不満なんだ。やーっらしーい」
「!?」

 完全に一人の世界へ浸っていた最中、突然掛けられた声に盛大に肩が跳ねて止まった呼吸。

「はっ、はっははははがっ……!?」

 驚きと羞恥でうまく言葉が出ない俺に、マスクをした人はにっこりと笑った。

「はい、早く乗ってください。欲求不満の上月さん」
「ち、違いますっあれは……!」

 一体いつの間に居たのだろうか。促されたそれに大人しく従いながらも、必死に訂正をしようと両手でかぶりを振る。

「俺はあんまり気にしてないから、そうやって自分から墓穴掘らない方がいいですよ」

 穏やかにそう言いながらエンジンを掛けてシートベルトをした彼の言葉に、確かにそうだと居心地悪く俯いた。

「……う、はい……」
「じゃあ、行きましょうか」

 その瞬間、いつもに比べて少し余裕がない声音に気付いてふわりとマスクの横顔を流し見た刹那。

「テェェェメェェエエ! 待てゴラァァア!」
「ひいっ!?」

 進もうと動き出す直前の車の前に突然誰かが現れたかと思えば、バンッと両手でボンネットを叩いて物凄い剣幕で運転席を睨んでいた。

「えっ、えっ!?」
「……チッ」

 あまりに凄い形相と訳のわからない展開に気が動転して、あたふたと運転席とボンネットを見比べれば、羽賀さんは眉間にシワを寄せ、本当に鬱陶しそうに前を見据えながら舌打ちをした。

「降りろ! 今から打ち合わせだっつってんだろうが! 主役のテメェがどこ行くつもりだこの野郎!」

 車の外からだというのに、地を這うような怒声がはっきりとこっちにまで響く。

「……あーあ。アイツってほんっと気が利かない……」

 クソ前河。
 吐き捨てるようにそう言ったことにハッとして、またボンネットの方で鬼の形相をする人を見た。

「さっさと降りろ! 逃げられると思うなよ! 地獄までテメェのケツ追っ掛けてやる!」

 前に会った時はマスクをしていたからよく顔が分からなかったけれど、この人が本物の前河さんか。

「うるっせえなあ……降りりゃーいいんでしょーが、降りりゃーよ」

 いつものニコニコ笑う人からは想像出来ないくらい冷ややかな声で悪態をつく人が、とうとうエンジンを切ってシートベルトを外した。

「ごめんね上月さん……なんか、やっぱり定時で上がらせてくれないみたい……せっかく来てくれたのに……怒ってる?」

 そしてこの時、ようやく冷静になった頭がすべてを理解して、思い切り眉間にシワが寄った。

「当たり前じゃないですか! あなたが主役の会議をすっぽかすなんて! なに考えてるんですか!? 俺のことなんてどうでもいいですよ! それより今すぐ会議に出てくださいほら早く扉を開けて!」
「ご……ごめんなさい、行きます行きます、行ってきます」

 あり得ない。前河さんがあんな顔で来るくらいなんだから、きっとよほど大切な打ち合わせなんだろう。
 この人の仕事は誰でも出来るような事務とは訳が違う。沢山の人のためになるような、素晴らしいこと。休んでほしい気持ちは山々だけど、だからといって仕事を無理やりサボってまで抜け出すのなんて絶対に許されないことだ。

「ごめん! 俺、ホントに上月さんと帰るのが楽しみで楽しみで……! すぐ行ってすんごい頑張ってくるから! 怒らないで、ねっ!?」

 目上の筈の羽賀さんに初めて怒鳴ったせいか、珍しく慌てた顔をした人に、「二度とこういうことはしないでください」とキツく念押しをしてから、ため息をつく。

「……呆れちゃった? ごめんね。ホント、俺が定時で帰れるなんて滅多にないからちょっと舞い上がり過ぎちゃった。ちゃんと仕事済ませてきますから、許してください」

 多忙なひと。毎日遅くまで神経を削る真面目なひと。なのにそんな疲れを出さないひと。

「本当、呆れますよ……」


 頭を掻きながらそう呟けば、悲しそうに伏せられた目。それを映して、今度はゆっくりと笑う。

「打ち合わせや仕事が全部済んだら、連絡ください」
「……えっ?」
「俺のあんまり美味くない料理でよければ、ご馳走しますよ。夕飯、一緒に食べましょう」

 それを聞いてまた周囲に見えない花をパアッと散らした彼が何度も頷きながら、意気揚々と運転席の扉を開くのを見て自分もシートベルトを外して再び表へと踏み出した足。

「ったくテメェは油断も隙もない……!」
「ごーめんね。ほらほら、ちゃちゃっと打ち合わせなんて終わらせちゃいましょーよ」

 未だに怒り心頭な前河さんの肩をあやすように叩きながら去っていくふたりの背中を見送ろうとその場で立ち止まっていれば、不意にこっちを振り返った人が口角と片手を上げた。

「ありがとよ、坊や」

 それに微笑み返して軽く会釈した刹那、前方から悲鳴が聞こえて思わず跳ねる肩。

「ってえな、人の足を踏むんじゃねえ! この靴磨きたてなんだぞ!」
「お前が靴磨くなんて何様よ」
「そういうテメェが何様だ!」

 なんやかんやと言っていても、ギャイギャイと仲慎ましげに建物へと消えたと同時に、自分もポケットに両手を突っ込んで踵を返す。

「……ふう」

 帰りは商店街に寄って、なにか買って帰ろう。

 そういえば羽賀さんと前河さんは、別々の時間に仕事が終わるのだろうか。出来れば前の誤解していた時期や無礼を改めてあのしっかりとした優しそうな人に謝りたい。今夜の食事に彼も誘えないだろうか。華のない、地味な料理ばかりになるだろうけど。

 前河さんは、羽賀さんが咄嗟についてしまった嘘の帳尻合わせをしていただけだと気づいた日から、申し訳なさが募っていたところだ。

 とりあえず一応は、3人ぶんの食材を買って作っておこう。もし来れないなら明日の飯にしてしまえばいい。

「……よし」

 そう思い立つと同時に、羽賀さんの携帯へ連絡を入れて、再び歩き始めた。

「ふーっ……」

 風が、生暖かい。


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