PAGE
[週末ドラマティック]
上月しぐれ









 柔らかな布地に頬を擦り寄せて、寝返りをうつ。
 ずいぶん寝心地がいい。
 まだ半分夢心地だった頭も、そこでふとした疑問に気づいて、顔を上げた。

「……え?」

 昨日は畳でそのまま雑魚寝した筈なのに、またしても今体を横たえていたのは布団の上。肩まできっちりとかぶっていた掛け布団を慌てて退けて、辺りを見渡す。

「……羽賀さん?」

 今朝は酒を浴びるように飲んだ翌日だと言うのに二日酔いの症状もなくやけにクリアな状態で目覚め、もちろん夕べのことも全て覚えていたおかげで、すぐに彼がこの部屋に居ない違和感に気付きその名を呼んだ。

 するとタイミングよく台所の更に奥にある脱衣室の扉が開いて、ジャージを纏った彼がバスタオルで髪を拭っていたかと思えば、その綺麗な瞳が俺を映した瞬間、にっこりと笑う。

「おはようございます、起きたんですね。勝手にですけど、シャワー借りちゃいました。すみません」
「は、はあ……いえ……」
「二日酔いはありませんか?」

 夕べあれだけ酔っていたとは思えないいつも通りの対応に、緩く頭を掻いてから自分も起き上がる。

「ええ、大丈夫です。羽賀さんは?」
「いやあ〜、ちょーっと昨日は飲みすぎちゃいましたよー。色々やらかしちゃってすみません。でも、二日酔いはありませんでした。ははは」

 あまりにあっけらかんとした態度で部屋を歩き回るから、その存在が普通のように感じられて、彼が起きているなら自分も早く顔を洗おうと洗面所で軽く水で目元を擦っては歯も磨く。

「上月さん、この近所に喫茶店てあります?」

 ひょいと後ろから現れてはそう問うた彼と鏡を通して目を合わせ、相変わらず綺麗で男前な顔だなと感じながら歯ブラシをくわえたまま交わしたぎこちない会話。

「ふぁい、ふぐまえがきっはへんへふ」
「そう。前が喫茶店ならちょうどよかった。そこで朝飯食いましょうよ。今から作るの面倒でしょ」

 お互いに独り身のせいか、そういう面倒といった感覚だけは恐ろしく価値観が似通っているらしく、苦笑しながらも頷いた。

「あとせっかくですし、もし上月さんが昼から暇で体調も悪くなければ、ジョギング行きましょうよ。俺ずーっと先伸ばしにしてきたから、走りたくてウズウズしてんですよねえ」

 そう言って本当に疼く体を鎮めるかのように楽しそうに今からストレッチなんてするから、入ってしまったスイッチを切るのも悪いと思えて、午後のジョギングも肯定の返事をしたと同時に、口をゆすいだ。

「やった! あっ、すみませんけどこのジャージ……」
「ええ、構いませんよ。汗をかくなり汚すなり、適当にしてやってください。元から俺が着てくたびれちゃってますから」
「すみません……ありがとうございます」
「いえいえ」

 どうせ休日の予定もなかった。彼が誘わなければ、自分からジョギングに誘うこともなかっただろう。

 どうもあの一件以来、当たり前だけれど川沿いには近付かなくなっていた。
 俺から金を奪い去った以上、彼女がもうあそこに来ないことは分かっていても行きにくい。でもそんな気まずさよりも、彼と何気ない話をしながら走る川沿いは楽しいに違いないといった期待に胸を膨らませた。
 思い出は書き換えていけばいい。そうしないと、前には進めないんだし。

 それでも胸の奥で、チリチリと燻る熱をもった灰が細い煙を立てる感覚が残ることも感付きながら、あえて知らないふりをした。

「じゃ、朝飯に行きますか」
「はいっ」

 だらしない格好のまま、いい大人が喫茶店の扉を開けば、カランコロンとまずは頭上で軽やかな音がして、店側へ入店を知らせる。

「おばちゃん、おはよう」
「ああしぐれ君、おはよう。あら、今日はお友達も一緒? 珍しいわねえ」
「ははは、まあね」

 別にすぐそこの喫茶店に出るだけですよと言ったのに、彼は顔の半分以上を隠してしまうマスクを付けることは忘れなかった。

「どうぞ」
「ありがとうございます」

 人目を嫌う彼の性格も考慮して、店の一番奥にある唯一壁に囲まれたテーブル席を勧めては、共に腰かける。

「しぐれ君、いつものでいいの?」
「あっ、うん! 羽賀さんはどうします?」
「じゃあコーヒーで」
「おばちゃん、あとコーヒー!」
「はぁい」

 地元の人たちだけとはいえいつも通り賑やかな店内に一息ついていれば、俺と壁しか視界に映らないはずの彼が居心地悪そうに頭を掻いた。

「……どうかしました?」
「ああ、いえ……俺、上月さんに気を遣わせてんなあと思うと、どうもね……」

 どうやら、この席や配置から滲み出る配慮が原因のようだ。

「ああ、気にしないでください。俺だって別にそこまで気を遣ってる訳じゃありませんから。ここが空いてなかったら普通の席に座ってましたよ」

 彼は他の人ならサラリと受け流してしまうほんの些細な事で、急に申し訳なさそうにするから間合いを測るのが難しい。

「……ですよね。はは、すみません。俺、人と飯なんて行かないモンだから、ついついこういう所へ一緒に出てくると神経が研ぎ澄まされちゃって。余計なことばっかり考えるんです。自分から行こうって言い出しといてアレなんですけど」
「あはは、じゃあこれからはこういう機会も増えるでしょうし、気楽に少しずつ慣らしましょう」

 ネガティブな部分に踏み込み過ぎないように、かといって無視もしてしまわないように。心地よく受け流して、不快さが残らないテンポで言葉を返すことに徹する。

「……ありがとうございます」
「あっ、あと前から思ってたんですけど、羽賀さんってもしかしなくとも少食ですか?」

 視界に映る人々を見ているだけでも、きっと彼はなんらかの意味を考え、思考をぐるぐると回してしまう。そうさせない為にもあえて目の前に座る人の瞳だけを見詰めて、全神経を集中させた。

「まあ、そうかな。確かに言われてみれば食わないかもしれないね」
「ですよね、だって昨日も結局白米は食わずに酒とつまみだけで過ごしてましたもん。それで体調は悪くならないんですか?」
「んー、あんまりならないね。ほら、もうこれは職業病みたいなモンだから。昨日も見てて分かったと思うけど、前河は研究の合間にガーッと掻き込んですぐに切り替える早食いタイプ。そんで俺は、没頭し過ぎて飯食うの忘れちゃう絶食タイプ」
「絶食タイプって……いや、早食いもあんまり体によくないですけど……。笑顔で言うことですか……」

 余計なことを考えさせないように、テーブルに両手を置いて前のめりになって会話を交わす。

「慣れりゃあなんてことないよ。長くも寝れないし。これは体質だろうけど」
「えっ……いつもどのくらいで目が覚めるんですか」
「2、3時間寝れたらいい方かな。俺も寝たいんだけど、どうしても長時間は出来ないんだよねえ。だから上月さんが羨ましい。あんなにぐっすり眠ってみたいなあ、寝顔も寝相も豪快だし。安眠とはまさにあなたの寝方のことですね」
「うっ……お、俺の寝顔なんて見ないでくださいよ……悪趣味です……」

 そこまで言った時、またあっと今朝自分が寝ていた場所を思い出して、頭を下げた。

「いや、それよりもまた布団を用意して頂いたみたいで……ありがとうございました」
「いいえ、部屋の主を畳に転がしてしまった犯人は俺ですから。上月さんは寝てる時、俺がなにやっても起きないし、介抱のし甲斐がありますよ」
「うわあ……やめてくださいよ……」

 きっと間抜けに違いない寝姿を彼に見られていたかと思うと、本当にいたたまれなくなって頭を抱える。
 そのなんと言っていいかわからない絶妙なタイミングで、エプロン姿のおばちゃんがおかしそうに笑いながらお盆を片手にやって来た。

「なあにしぐれ君、朝から深刻そうな顔して。はいどうぞ、モーニングセットとコーヒーね。ごゆっくり」
「ありがとう」

 コトリと小さな音をたてて置かれた皿には厚みのあるトーストとジャム、ゆで卵が乗っていて、思わず綻んでしまう口元。

「ここのトーストとジャム、すっごい美味いんですよ。よかったら羽賀さんも一口どうです?」

 寝顔の件なんて、この微かに湯気が立つトーストを見れば一瞬にしてどうでもいいことに変わってしまう。なんて単純な頭なのかと自分で失笑しながらも軽く問えば、じゃあいただこうかなと返してくれた彼に、更に微笑んだ。

「俺、基本的に白米が中心の飯が好きなんですけどね、ここのは別。おばちゃんのトーストなら毎日食えちゃいそうです」
「へえ……それは楽しみだな」

 だけどそう言ってにっこりと笑い返してくれる彼が、おもむろにマスクを外したことに一瞬驚いて、全ての動作を止めてしまった。

「……えっ」
「え、なに? もしかして誰か俺の顔見てる?」

 それに気付いたのか、素早くまたマスクを手に取った人にブンブンと首を振った。

「あ、いえ……少しびっくりしただけです。こんな場所で外すと思ってなかったから……」
「流石に喫茶店でコーヒー飲む時くらい外しますよ。個室ならまだしも、他人の目がある中ストローで飲むのは、おかしいでしょう? 逆に目立っちゃいますって」

 言われてみれば当たり前の台詞に、すみませんと何故か謝りながら頭を掻く。
 すると彼も同じように頭を掻いてからコーヒーカップを取る姿を見て、思わず笑ってしまった。

「なに?」
「あっ、いえ……だって羽賀さんも俺と同じタイミングで頭掻くから……」

 口と一緒に手も動かして、おしぼりで拭った指先でトーストを掴み、大きくかじる。
 その瞬間、表面のサクサクとした部分と内側のもっちりとした食感が複雑に口の中で絡んで、熱も残るトーストを噛み締めた。

「えっ、俺頭なんて掻いてます……?」

 その合間にも、本当に驚いたように発された声が鼓膜を揺らして、ものを飲み込んでから口を開く。

「はい、よくしてるじゃないですか。あれ、まさか自分で気付いてないんですか?」
「はあ……、そんな癖は前までなかった筈なんですけど」

 そう言っている傍からまた頭へ右手を持っていく仕草にホラと指を差せば、あっと返される声。

「あはは、本当に無意識なんですね」
「おかしいなあ……」

 さ迷う手を結局ポケットに仕舞った彼は、珍しく眉間にシワを寄せながらもう片方の手でコーヒーをすする。
 その姿がますますおかしくて、パンを頬張っていた手を止めて口角を上げた。

「じゃあもしかして、移っちゃったのかな。それ、俺の癖ですから」
「……ぶふっ!?」

 だけど何気なく告げたはずの言葉に、何故か羽賀さんがコーヒーを吹き出しそうになったのに驚いて、こっちまでコーヒーカップを取る手を滑らせそうになった。

「ど、どうかしました……!?」
「あっ、いや……あはは、別になんでも……すみません……」

 今まで少し驚いたような仕草や顔は何度か見てきたけれど、ここまで大きな反応を見たのは初めてだ。彼はなにをそんなに動揺しているのだろう。

「いやあ……無意識って怖いですねえ……。あっ、パン一口ください」

 そんな疑問を長く抱かせないような流れる仕草で、まだ熱いトーストを滑らかに取り上げた人が意外にも大口を開けてかじりついた。


「あっ、ホントだ。これ美味いですね」

 隙なんてまるでないような外見なのに、パンくずを口の端につけたままにこやかに笑う彼が可愛くて、まるで幼い子と飯を食っているような感覚に変な父性がくすぐられた。

「ほら、口についてますよ」

 衝動のまま指先で軽く唇の横を払ってあげれば、少し照れたようにはにかむ顔も綺麗で男前で。こんな人に口説かれて落ちない人はまず居ないと改めて確信する。

「……どうも」
「いいえ。一口と言わず半分食べます?」
「えっ、でも上月さんのじゃないですか」
「たまには羽賀さんも、ちゃんと朝飯食った方がいいですよ」

 俺たちの会話はたまに微妙にずれて、それでも滑らかに進んでいく。

「じゃあ、お言葉に甘えて」

 旧友と飲む時のように、馬鹿げた話で共有した過去に腹を抱えて笑い合うようなこともなく、下世話な話を突っ込んですることもない。なのに彼と過ごす時間は、こんなにも穏やかでただただ楽しい。

「上月さん、ここの人とずいぶん仲がいいんですね。常連?」
「ああ、はい。そうなんですよ。アパートに越してからけっこう頻繁に来てて。顔会わせてたらすっかり息子みたいに可愛がってくれるようになったんです」
「そう。上月さん確かに好かれそうだもんねえ」
「そうですか?」
「うん。ここの人がアンタを可愛がりたくなる気持ち、俺も分かるよ」

 ひとりならすぐに食べ終わっていたモーニングは、こうして言葉を交わしながら時間を掛けて食べると何時もより余計においしく感じた。

「しっかりしてるように見えて抜けてるし、真面目過ぎて心配になるし。男前なのに可愛いし」
「ははは、そんな変なこと言うのは羽賀さんくらいですよ」

 本当に、彼の感性は独特だと思う。
 俺みたいな普通の男と何故か親しくしてくれるし、どこか普通の人とは違うことは分かる。

「だろうねえ。俺は天才変人で有名な羽賀郡司大先生様って呼ばれてるくらいだから」
「ええーっ、なんですかーそれ」

 そのあまりに大袈裟な響きに、実際そうなのだとしても思わずケタケタと呑気に笑ってしまう。

「しーらない。適当なあだ名みたいなモンでしょ。暇だよねえ。なーにが大先生様だっつーの、嫌味だよイヤミ。あーあ、男の嫉妬って怖ぁーいね」
「いやいや、本当にそう思われてるかもしれませんよ」
「やめてよー上月さんまで」

 なぜかこの人と接する際には、尊敬し目上の方だとうやまうことはしても、天才ですねとは、思いはしても言ってはいけない気がした。

「ふーっ、食パン半分食べただけなのにお腹いっぱい。美味かったです」
「よかった」

 それは彼を孤独に追い込むような気がして、なんとなく口には出せずにいる。

「おばちゃん、ごちそうさま」
「はーい、ありがとねー」

 それから皿もすっかり空になって文字通り一息ついてから、カチャカチャと食器が触れ合う音と賑やかな話し声の合間に、古くなった床板を踏んで軋む音を更に割り込ませてはレジに向かう。

「美味かったよ、また来るね」
「ええ。あっ、それより仕事はどうなの? 体調崩してない? またアンタ外食ばっかりしてるんじゃないの?」

 どれだけ店が忙しくても、こうして会計の時には俺を気にかけて会話してくれるおばさんに、離れた場所に居る母親の面影を見る。

「はははっ、仕事にはやっと慣れてきたよ。飯も最近は節約生活で、質素で栄養バランスの取れた自炊三昧だから安心して」
「またなにか余ったら持っていくからね」
「ありがとう、嬉しいよ。おばちゃんも体には気を付けてよ」

 丸く広い肩を優しく撫でて、いつもはそこで自然と切り上げる話に、今日は珍しく新しい言葉が追加された。

「しぐれ君」
「うわっ、な、なに」

 グイと掴まれ引き寄せられたことで揺れた視界の中で、もう外で待ってもらっている羽賀さんの横顔が色ガラス越しにぼんやり映る。

「お友達が出来たんなら、次は彼女でも連れといで!」

 耳元で言われるにはあまりに大きなその声に、苦笑しながらハイハイと肩を揺らして片手を振った。

「その内ね、連れてくるよ多分。いい出会いさえあれば」
「自分から行かないと、しぐれ君みたいな優しい子は友達止まりだよ! シャキッとやる時はやりな!」
「わぁーかってるってば」

 全くおせっかいなんだから。
 クスクスと笑いが抑えられないまま扉を開けば、当たり前のようにこっちを見て首をかしげた人もにっこりと笑う。

「どうしたの? そんな顔して。いいことあった?」
「あははっ、いえ。いいお節介焼かれてんなあって」
「あの奥さん? なに言われたの」

 店から出て3分も掛からずに、カンカンとアパートの外階段を上って鍵を開けば、また古い畳の匂いがふわりと漂った。

「いやあ、今日は友達連れてきたんだから、次は恋人でも連れてこいって。はははっ、ホント、笑っちゃいましたよ」
「恋人か。ま、おばさんに堂々と紹介出来るような相手かどうかは別として、上月さんにはきっと大切な人が見つかりますよ」
「ええ、来年の今ごろにはきっとね。俺、羽賀さんの手相占いに賭けてますから」

 占いに賭けている時点で、やる気なんてないくせに。
 そんな投げやりな思考を振り払うように靴を脱いで、手を洗って、再び布団へ頭から突っ込んでいく。

「だらけてますねえ」
「へへへ、休日ですから」

 横になった俺のすぐ枕元で腰をおろした彼は、壁に背中を預けてマスクを外した。

「上月さんの部屋、落ち着くなあ……」

 その言葉通り、目を細めて吐息のようなため息をつく形のいい唇。
 換気のために開け放していた窓から吹き込む風が彼の綺麗な髪を揺らす。

「今、眠いんじゃないですか?」

 見上げた先にあった瞳に思ったことをそのまま問いかければ、羽賀さんはまぶたをゆっくり閉じたあと、口角だけを上げた。

「……少しね」
「寝てもいいですよ、布団使います?」
「いや……横になると逆に目が覚めるから。このままでいいです」
「そうですか……」

 片膝を立ててうとうととする姿も、同じ性を持っているはずの俺でもなんの違和感も不快感もなく見詰め続けられる。
 布団で寝転びながら、数分間隣に座る彼を見上げていれば、今にも消え入りそうな掠れた声が鼓膜を揺らす。

「……ねえ」
「はい」
「やっぱり、肩だけ貸してくれない……?」


 もう半分以上寝てしまっているんじゃないかという声と話し方に小さく笑いながら、ゆっくり上体を起こして彼の左隣へ腰掛けた。

「はい、いいですよ。どうぞ」

 そう告げるや否や右肩に重みがやって来て、ほんの少し自分の体もその力を受けて傾く。

「ありがと……」

 もうほとんど聞こえていないような言葉はすぐに消えて、俺も同じように目を閉じた。

 心地よい無言の空気に混じる、自分以外の人の体温。

 そう言えば羽賀さんと過ごしている時はテレビもつけないし、携帯も見ない。

 彼は世界の最先端を走る研究者なのに、誰しもが身近に持ち使いこなす機械からはまるで一線を引くように離れているように見えた。

「あったかいなあ……」

 意味もなくこぼれ落ちた言霊が、浮遊しては染み込んでいく。

 こうやって世の中の何もかもから切り離されたかのように穏やかに過ごす時間は、とても穏やかで、大好きだ。













「よーっし、走りますかー」
「その前に、ストレッチしましょうよ」

 小さな子どもがおやつを食べているであろう時間帯、高く上った太陽に照らされながらアキレス腱を伸ばして隣に苦笑いをする。

「あっ、そうだった。ストレッチは欠かせませんよねえ、すみません」
「いえいえ」

 この人に怪我なんかさせてしまったら、こっちが怖い。とにかく安全に、そして楽しく健やかに。

「それにしても靴まで借りちゃって……」

 屈伸をしながら、本当に申し訳なさそうに話し始めた彼を、また軽く笑った。

「いいですよ。靴のサイズが同じでよかった」
「ね、それは確かに俺も奇跡だと思います。本当にピッタリ」
「あははっ」

 羽賀さんと居ると、こうしてずっと笑ってばかり。
 穏やかな自分を保てて嬉しい。

「さて、そろそろ行きましょうか」
「はい」

 爽やかな音が響く清流を横目に、充分なストレッチを終えて隣に立った人を改めて見上げる。

「……本当にマスク付けたまま走るんですか? かなり苦しいですよ?」
「辛くなったら外しますから。まあ、とりあえずはコレで」

 一体この人はどれだけ人に顔を見せたくないのか。
 でもそういう信条があるなら、無理に促すことはよくない。彼のことは彼に任せるのが一番いい事は、見ていれば分かる。

「ただのジョギングです、気楽に行きましょうね」

 そう言いながら、本当に軽く慣らすような速度で、景色を楽しむように走り出す。

「わーっ、念願のジョギングです」

 彼は心底幸せそうに、顔の中で唯一空気に触れている目元で弧を描いた。

 足元で小さな砂利が転がって、両脇に生える草も揺れる。

 最近は自転車が流行っているせいか、ヘルメットをつけロードバイクを漕ぐ人とよくすれ違う。その度に俺か羽賀さんのどちらかが後ろに下がり、通り過ぎた後にまた隣に並ぶ。

 そんなことを繰り返して30分を過ぎても、彼はマスクを付けているにも関わらず少しも息も乱さないで、相変わらずニコニコとしていた。

「気持ちいいですねえ〜、こうしてゆっくり走るのって」
「ええ……」

 軽く始めたはずのジョギングも、緩やかにピッチを上げていく羽賀さんに引っ張られるように着いていく内、はっきり言ってランニングの域にまで入っていて、彼の言う「ゆっくり」とはかけ離れていた。

 これは相当体力がある。流石は厳しい運動をしている人だ。

 自然と眉間に寄ってくるシワに気付いて、なんとかそれを気付かせないように誤魔化しながら笑う。
 マスクもしていない自分の息が先に上がり始めていることに焦りすら感じ始めた時、不意に彼が立ち止まった。

「あっ、靴紐ほどけちゃった」

 それを見てやっと立ち止まれると内心ホッとしていれば、間髪入れずに響く呑気な声。

「ああ、上月さんは先に行っててください。結んだらすぐに追いかけますから」

 それに顔を引きつらせてしまいそうになりながらとりあえず頷いて、またゆっくりとしたペースまで落としながら足を止めずにそのまま進む。

 立ち止まったら息切れしているのがバレてしまうかもしれない。ならば今の内に息を整えて、疲れを和らげた方がいいだろうと判断したが故の返事。

 全く、陸上をやってたなんて言わなきゃよかった。余計なプライドが邪魔をして、素直に疲れたとすら言えない。

 苦しさに紛れた変な意地に奥歯を噛んでいれば、橋の下、影の部分に入り込む。その瞬間ひやりとした空気がほほを撫でたことが気持ちよくて、目を細めて深く息を吸い込んだ。

「……あ、あのっ……!」

 その刹那、影の右側から耳を通り抜けた声に体が無意識に反応して、考える前にはピタリと立ち止まっていた体。

「あの……」

 光の中から急に入り込んだ日陰のせいでコントラストに眩んだ目が未だについてきていないけれど、その声には嫌というほど聞き覚えがあった。

「こ、こんにちは……」

 透明な声、控えめな色、悲しげなものを秘めた口調。

「あの、私……」

 急に立ち止まってしまったせいか、ドッと全身に汗が伝う。

 それと同時にふわりと胸に誰かが飛び込んでくるような感覚がして、更に汗が吹き出た。

「ごめんなさい……っ」

 なぜ、どうして。
 そんな言葉ばかりが頭を回る中で、背中に回された細い腕を振りほどく事も出来ないまま、呆然と前に広がるコンクリートの柱を見詰める。

「私を警察に突き出して……」

 あの日すべてを奪って逃げた彼女は、ここにはもう二度と来ないと思っていた。

 だって、俺が来るかもしれないから。

 なのになぜか今、こうして目の前に現れ、汗だくの俺に抱き着いている。

「もう嫌なんです……っ」

 なにもかも、訳がわからなかった。

「どう、して……」
「あんなに優しくしてくれたあなたに、私……っ、酷いことを……」

 今この胸の中でか弱く泣きじゃくりながら話すのは、最初から金だけを目的に俺に近付き、家に上がり、信用させ、そして全てを奪い去った女性。

「本当にごめんなさい……」

 あの日は酷い失望と気だるさに埋もれ、朝はなにも出来なかった。

 それほど打ちのめされ、本当は少し憎みもした。

「どうしても、謝りたくて……っ」

 なのに今俺をそんな気持ちにさせた彼女がこうしていきなり目の前に現れては俺に泣きすがり、謝罪している。
 これを怪しいと思わない筈がない。一体次はなにを企んでいるのかと身構えない訳でもない。本当に警察に突き出してやろうかと、そう思わない奴はどこにも居ない。

 なのに、なぜだろう。

「……離してください」

 どうしても彼女を、突き放すことが出来ない。

「俺……今、汗だくだから……」

 いや、何故だなんて頭が逃げているだけで、本当はどこかで嫌というほど理解している。

「…………」
「……あの」

 俺は、彼女に、深く恋をしているんだ。

「こーうづーきさんっ、お待たせ」
「……!」

 雷が落ちたあとのように真っ白になった頭に間延びした声が通り抜けた瞬間、抱きしめられていた腕は慌てたように離れ、彼女はあの日と同じ白いワンピースを揺らしながら逃げていった。

「あらま。もしかしなくとも、お邪魔でした?」

 走る度に揺れる長い黒髪を視界の端に映して、ゆっくりと俯いた。

「で、あれはどーいうお知り合い?」

 そんな台詞に不思議なほど心をえぐられたような気がして、息が詰まる。

「……羽賀さん」
「はい」
「もう、帰りましょうか……」

 今は酷く胸が痛い。

「そうですね」

 俺は一体、どうすればいいんだ。







[←前|次→]
[←戻る]