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[雨色ガールにご用心]
上月しぐれ









 彼にこんなことを言ったら、どんな顔をされるだろうか。

「しぐれさん」
「おはよう」
「ご飯、出来てますよ」
「ああ……気を遣ってくれなくてもいいのに……」

 一度は俺の物を奪い、騙した人間を許して、あれから密かに逢瀬を重ね、今は俺の家で半同棲状態であるなんて知ったら。

「……いただきます」

 彼は、どんな反応をするだろうか。

「……おいしいですか?」
「ああ……美味いよ」

 きっと怒りながら呆れ返るに違いない。そして「馬鹿だねえ、今すぐ警察行きなさいよ」と俺をたしなめ、最後には諦めたように苦笑するだろう。

「今日は何時に帰りますか?」
「たぶんいつもと同じくらいだけど」

 もう半月近くも会っていないからこそ、こうして頭で思い描く彼の姿。

 なにを言われるか大体分かっている。そして呆れられ、見放されてしまうことも。
 それが怖くてここ最近は毎日早くに上がり顔を合わせないようにしている挙げ句、羽賀さんからの電話やメールも全て無視してしまっている状況が更に自分を追い込んでいるのは、言うまでもなかった。

「……はあっ」

 せっかくあの人と深い信頼関係を順調に築きかけていたのだから、彼との接触は正直断ち切りたくない。
 一生尊敬し、傍で笑っていたいと思えるような友人でもあり男として憧れもするの綺麗な横顔が浮かんでは消えていく。

「……あの」
「ああ、ううん。ごめん、なにもない」

 柔らかく心配そうに揺れた大きな瞳と髪がすぐ目の前にあって、なんとなく唇を塞ぐ。

「……じゃあ、行ってくるよ」

 彼女は相変わらずどこか憂いを秘めた眼差しで、俺の隣に今は大人しく居てくれる。
 毎日が幸せで、でもやっぱり不安で目が離せない。

「……いってらっしゃい」

 もしかしたら今日の夕方帰ってきた時にはまた部屋は空っぽになり、捨てられてしまうんじゃないかと気が気でなかった。

 彼女は俺を好きだと言ってくれ、体を求めてもくれる。
 それなのにまだ、あの瞳を見るとなにをそんなに悲しんでいるのかとこっちまで不安になってきて、信じきれずに過ごす毎日。

「……行ってきます」

 いつもの鞄を担いで、こんな曖昧な煙を振り切るように玄関へと向かい、扉を開く。

 その瞬間真っ白にも感じる眩しい朝日が直に目を突き刺して、眉間にシワを寄せた。

 彼は人が沢山いるような場所や時間帯が嫌いだ。

「おはよう上月」
「おす、おはよう」

 避けようと思えば、そんな時間帯や人の輪の中に入っていれば簡単に避けられることはなんとなく分かっていた。
 だから出勤する時は人で一番込み合うタイミングを見計らって、それに流されるように事務局へとなだれ込むのが常となっている。

 そして今日も同じくそれにならい波の合間を縫うように進んでいれば、突然後ろから鞄を持った方の腕を掴まれ、強く引かれてよろける体。

「ちょっ、とっ……!?」

 一瞬、相手の人が今は垂れ下がっている肩掛け紐にでも引っ掛かってしまったのではないかと勢いよく振り返れば、そんな憶測はすぐに打ち砕かれていく。

「おはよ、久しぶり。ちょっといいかな?」

 こんなにも人が行き交う中、平然とマスクをつけた彼がにっこりと笑っていた。

 あまりに予期していなかった出来事に、なにもできず呆然としていただけの腕を強く引かれて、奥にある電気系統の機械が押し込まれている整備室の前へと無理やり移動させられる。

「……」

 それでも無言を保つ空気が怖くて悲しくて、いつ逃げ出そう、どう言い訳しようとぐるぐる回る頭と嫌な汗がじっとりと滲む額。

 だけどゆっくり俺の視線の高さまで合わせるよう、少しだけ背中を丸めてこちらを覗き込んだ彼の眼差しは、今までの緊張を解きほぐすような柔らかなものだった。

「顔色悪いけど……大丈夫ですか?」
「……えっ?」
「夜は居ないし連絡は取れないし、ずいぶん心配しましたよ。もしかして最近なにかありました?」

 至って穏やかなその言葉通り、ただ俺を気遣うだけの声音。
 なんの憂いも不安も与えない安定したその響きと優しさに、思わず彼に隠し立てをしている自分を戒めたくなった。

「まあ、お互い今から仕事でゆっくり話せるほどの時間もありませんから、昼飯一緒に食べましょう。俺、迎えに行きますから。ね?」

 こんな奥まった場所で人通りが少ないとはいえ、すぐ角を曲がった先では慌てたように職場へ駆け込んでいくような足音が聞こえてくる。

 結局まともな返事をする前に、じゃあと離れていった彼の背中を見ることも出来ず、立ち尽くす。

「はあっ……」

 嗚呼、今感じているこの幸せを彼に力説し、説き伏せられるまでの情熱を俺はまだ抱けていない。だからこんなにも憂鬱なのだろう。

 中途半端な愛情。それでも離したいとは思えない。

 彼女も、そして彼も。

 愛情と友情を同時に求めるなんて、俺はなんて欲張りなんだろう。

「最低だな……」

 ぼそりと自分で自分を追い込むように呟き、大人しく職場の扉を開く。

「あれ、上月。お前俺と一緒に入って来たのに、やけにここまで来るのが遅かったな」
「トイレだよトイレ……」
「ふーん、ま、いいけど」

 椅子に腰掛けて頭を抱えそうになっても、仕事にまでこれを持ち込むわけにはいかない。

 なんとか意識を切り替えて、パソコンの電源をつければ、青白く強い光が目を突き刺して、余計に眉間へシワを寄せた。




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