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[刄を研いで餌を待つ]
前河敦









 珍しく昼にふらりと出ていった背中は、昼休みを終える頃、出る前とさして変わらない覇気もやる気も全くないいつもの顔で戻ってきた。

「よう、お前が外で食うなんて珍しいな。明日は雪か?」

 背を丸めポケットに両手を突っ込んで歩く横顔に茶化して話し掛ければ、声も発さずかったるそうに動いた右腕、その先についた5本ある指の内2本だけを動かすなんとも態度の悪い仕草で呼ばれ、ため息をつく。

「……なんだよ」
「資料持って奥来い」

 その台詞に全てを察して、鞄ごと担いでは羽賀の背中に続いて歩く。

 扉を抜けた更に奥。静寂と無機質さに包まれたこの男の引きこもり部屋へ足を踏み入れた刹那、鍵を閉めろと言われて返事もせず後ろ手でお望み通り密室にした。

「資料」
「……分かったよ」

 偉そうな態度で腰掛けた野郎の椅子がギィと軋む。
 それを見ながら渡されていたファイルごと机の上に置いた。

 まるで何気ないことをするように、微塵の感情も滲ませない淡々とした手付きで中の資料を取り出し、きっちりと端から写真を机に並べていく姿に何故か鳥肌が立つ。

「はいはいはい、なるほどねえ」

 もう半月以上も前に羽賀から頼まれた「協力」とやらは、思った以上にコイツの異質さと執着心を垣間見るようなものだった。

「こんなクソみたいな女に引っ掛かっちゃってまーあ……あの人もホントについてないこと」

 忌々しそうに、軽蔑したように全て並べた写真と書類の内容に目を遠した羽賀の瞳が、冷ややかに視界に映るものを分析している。

「あの事務君と、今は一緒に住んでんだと」
「知ってるよ。さっき本人からも直接話を聞いてきた」

 最初探偵事務所の人間からこんな資料を貰った時には、羽賀が嫉妬でどうにかなっちまうんじゃないかと心配したが、怖いくらいに冷静だ。

「やあーねー、仲良さそうにホテルなんか行っちゃって。あの人も立派な男なんだねえ。やーっらしー」

 口調はおどけていても、マスクの下から響いてくる声は冷えきっている。

「ありがと前河。お前が協力してくれて助かったよ」
「……全くだぜ。テメェの手は汚さないで俺に探偵事務所なんて場所に行かせやがって」
「ごーめんね。万が一の為にだよ。本当は俺が直接行きたかったくらいなんだから」

 写真に映る女の1日は酷い。
 あの事務君が仕事で出てからすぐに女も外出し、アパートの前に横付けされていた車へと乗り込んで様々な場所を回っては金を回収している様が分かる。
 そんな写真が、羽賀の手によって見易いようにか時間軸に合わせて並べられている。
 女が正当じゃない方法で生計を立てているのは、これを見ただけで誰にだって分かるほどの証拠品。
 しかも、事務君が帰ってくる前の時間帯、まだ明るいにも関わらず空き地で止めた車内で、運転手の男とも事に及んでいたようだ。

「うう……そんな写真見てると、気持ち悪くて寒気が起こるぜ……」

 この女、マトモじゃない。嘘と犯罪に手を染めきっている。確かに見た目は綺麗だろうが、これはいくらなんでも駄目だ。

「へえ、どういう詐欺してんのかまで出てんだ。ご親切だこと。さすが大金叩いただけあるわ。探偵って便利ねえ。結婚詐欺が中心だってさ、ははは」
「……んな呑気なこと言ってねえで、さっさとこれ見せてアイツ助けてやれよ」

 最後はあまりに他人事にも聞こえたそんな言葉に眉間へシワを寄せて、ことごとく不幸なあの男を思って呟く。

 だがそれを聞いた羽賀は、表情1つ変えずにキッパリと否定の言葉を発した。

「やだね。俺はなにもしない」
「……はあっ!? じゃあお前、なんのために探偵なんか雇ってまでこんなこと調べたんだよ! あの事務君、絶対に身ぐるみ剥がされるぞ……!」
「ああ、剥がされちゃえばいいよ」


 人情味の欠片もない声にその瞳を覗き込んで怒鳴ってやろうと近付いた刹那、息が詰まるほどの狂気にも歪んだ横顔を見て、足が止まる。

「それでまたなにもかも失ったと嘆いて、途方に暮れて自分を責めて……ただただ絶望に浸ればいい」

 あまりにも生気のない言い方に、本能的な恐怖が背中を這い上がる。
 生まれて初めて、羽賀の声を聞いていてそんなことを思った。

「そうしたら俺が甘く優しく、いい人の顔してまた近付くんだ。可愛いだろうなあ……傷付いたあの人を1日中抱き締めて慰めてあげられるかと思うと、たまんないよ……」

 おかしい。
 コイツの愛は、純粋とはかけ離れている。普通じゃない。

「なーんでも1人で我慢しちゃうんだから。馬鹿だなあ、俺があの人のことを嫌いになんてなる訳ないのにさ」

 椅子に浅く腰掛け、完全に脱力したように凭れに背中を預けては天井を見詰めている男。
 声を殺して笑っているのか、上を向いた事によって晒された首元にある喉仏が動いているのがまた気持ち悪い。

「俺みたいなのに好かれちゃって可哀想。でも、そんなあの人も可愛いよ……」
「お前……」
「頭がイカれてんでしょ? ほんと、ことごとく壊れてる。俺って人間は、人間として不良品だね……」

 もしかしたら今までの羽賀なんて、コイツのほんの一部でしかなかったんじゃないかとその時ようやく悟った。だとすれば「羽賀郡司」という人間の本当の姿は、今見えているこっちの方なのかもしれない。

「でも楽しいよ……あの人の出口をこうしてじわじわ塞いで、俺だけに目を向けさていくっていう行為が楽しくて幸せ過ぎて……ちゃんと生きてんだなあって毎日思える……」

 興奮しているのか、やや上擦り始めた声と、いつになく饒舌な見えない口元。

「はーっ、落ち着けー……もう今からこの先が楽しみすぎて寝れないわあ……」
「おかしいぞ、お前……」
「今さらなに。俺がおかしいのは昔からだろ」

 研究者として賛同し、常に理性的で淡々と物事を理解し頭の回転が恐ろしく早い俺のよく知る羽賀は、今ここには居ない。

「だけど本当に俺がオカシイんだってあの人にはバレたくないから、今回はなにもしないよ。ただ、あの人に降りかかる出来事や事実の構造を全て知っていながら、どうなるか分かっているのにも関わらず手助けもしないでただじっと見ているだけの傍観者に徹する」

 ダランと四肢を投げ出して椅子に座る男は、無防備な姿勢なのに他者を近付けることを許さない殺気を纏いながら穏やかに話す。

「怖いくらい全部がうまくいってるよ」

 まるで刃を研ぎ澄ませ、餌が来るのを待っている獣を彷彿とさせる。

「早く俺だけを見て欲しいなあ……」

 おいおい上月君……。お前、こんなヤツに好かれて本当に大丈夫かよ。

「俺が幸せにしてあげるからね……」

 今まではなんとも思わなかったが、マジな意味でちょっとヤバイぞ、こいつ。

「――俺が病んでるように、性格がねじ曲がってるように見えるだろ……」

 警戒心をあらわにして後ずさる足を止めさせるような、弱々しい声が突如鼓膜を揺らして顔を上げた。

「病んでなんかないよ……俺だって必要最低限の常識は分かってるつもりだ。ただ、好きなんだよ……どうしようもないくらい」

 全く理解出来ないことを口走っていたかと思えば、次の瞬間にはこんなにも人間らしい声を放つ。

「頭ん中は打算だらけだけどさ……この感情だけは違う。あの人が自分よりも大切。これはホント」

 一体なんの薬なのか、錠剤の入った瓶と参考資料が並べられた机の上。

「純粋にあの人に恋をしてる……そしてそれが、俺を狂わせてる」

 コイツとの距離を測りかねてぎこちなくポケットに両手を突っ込めば、力なく笑う声が沈黙に消えていく。まるで溶けかけていた氷が音を立てて崩れ、水中に沈んでいくように。

「……あーあ、さっきからなぁに言ってんだろ。欠陥品の癖に、たまに随分とヒトらしいことも言うじゃない……ねえ?」

 異常と正常の間。狂気と純情の間をさ迷う心。それを羽賀郡司という天才であり奇人の基準で改めて当てはめた時、やはり普通の感覚でコイツを理解していてはいけないと痛感した。

「お前……自分をちゃんとコントロール出来るか?」

 恋慕の激情に飲まれてしまえば、この男はきっとどんな手段でも使う。
 流石に聡明なコイツならそこまで愚かな事はしないだろうが、なんせ初恋だと豪語するくらいだ。見張っておかなければ。

「よく分かってんじゃない……まあ今のところは全く問題ないよ。だけど正直、いつ暴走しちゃうかも分かんないって感じ。上月さんを傷付けないようにだけは気を付ける」

 怖がってる場合じゃない。コイツは本当の恋をしたことがないから、人の愛し方も分からないせいで、ついつい偏ったものになっているだけに過ぎないんだ。

「だから、何があっても探偵使ったってことは言うなよ。引かれるどころか確実に絶縁される」
「そのリスクも分かった上で俺に調べさやがったんだろ……ったく、お前ってヤツはメチャクチャだな」

 少しずつ修正して、普通の場所に導いてやろう。頭がいいコイツなら、一言告げただけで10は改善してくるに違いない。

「腐れ縁でしょ、とりあえず俺が幸せになるまでは付き合いなさいよ」

 最初は大反対していたのに、もうこの巻き込まれ具合。

「じゃあテメェが上手くいったら、今度は俺のに付き合えよ」

 変に緊迫していた空気も溶けて、また滑らかな時間が動き始める。

「好きな女も居ないのに?」
「うるせえ。その内出来る予定なんだよ」

 全く自分のお人好し加減には、呆れて笑いしか出なかった。




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