PAGE
[表裏一体の戦]
中村イツキ










真新しいスーツを着て、俺は改めて思わず立ち尽くした

「…………」

割れた窓ガラス、朝だというのにどこか薄暗い校舎、落書きだらけの壁の隙間からなんとか見える『三陽高校』の文字

「……うう」

やばい
勤務初日だって言うのに既に腹が痛い

「…………」

俺が無事教育免許を取得して、大学を卒業したのは今年の3月

大学ではほとんどの同期が就職先には大手企業を目指していた中、俺はどうしても普通のサラリーマンになる事には抵抗があって、それならばと一か八かで目指した教員

教員採用試験まで受けて、晴れて合格したものの……

「……まさか配属先がこんな不良学校だなんて……」

思わず片手で顔を覆っていれば、不意に聞こえた足音

「よーう、新米君」
「!」

明らかに自分の事を呼んだ声に、弾けるように顔を上げた

「朝から浮かねえ顔だな」
「……斎藤、先生……」

そこには、男らしい顔で欠伸をする

この不良学校で、先生としての立場を守り続ける数少ない教員の一人に、内心胸を撫で下ろす

良かった、不良じゃなくて

「餓鬼にビビってどうすんだよ、大人ならシャキッとしてろ」
「は、はい……!」

見ただけで、俺のビビり具合がバレてしまったのか、呆れたように肩をすくめた斎藤先生が笑いながら校舎に向かい歩いていく背中を追った

「あ、あの、斎藤先生……!」
「あー?」

なんとか、この人に教師としての心得を聞いておかないと

「どうすれば、斎藤先生みたいに、生徒に尊敬されるような先生になれるんですかね」

俺が必死になって問うたこの言葉に、隣の人は一瞬表情を消して、すぐに笑った

「……ここで生き残る秘訣を聞きてえのか?」
「は、はい……斎藤先生は、どうして生徒に尊敬されていらっしゃるんですか……?」
「あ?……まあ、俺は一応初代黒のナンバー2だったからなあ……卒業した後、ご丁寧に餓鬼共が祭り上げてくれたお陰で、今は教師としてそれなりにやってる」

だけど俺はその言葉を、正直半分以上理解できなかった

「黒……?ナンバー2……?」

怪訝そうな顔で呟いたのを見た斎藤先生は、少し驚いたような声で言葉を返してくれた

「お前知らねえのか」
「えっ?」
「さてはこの辺の人間じゃねえな」
「は、はあ……まあ……実家はここからちょっと遠いですけど……」

早めの時間に登校してきたごく少数の普通の生徒達が、俺の隣を通り抜ける

「この学校には、昔から白と黒ってグループの対立があってな……まあ、不良共が勝手に作り上げた倣わしっつーかなんつーか」
「……はあ」
「その倣わしの元になったグループに偶然所属してたお陰で、俺はこの学校の不良共に不本意ながらも持ち上げられてる訳だ」

男らしい横顔が職員室の扉を開いたのに続いて、俺も中に入る

「……そ、それって……斎藤先生は伝説的な存在って事ですか……」
「ま、手っ取り早く言うとそういうこったな」

相変わらず飄々とした姿と、言葉の数々

「えっ、じ、じゃあ……昔はすっごい悪かったって事ですよね……」
「すげえまではいかなくとも、多少は不良だったかもしれねえなあ……ま、それも昔の事だ、今は只のオッサン」

果たして俺のような人間は、こんな場所で教師としてやっていけるのだろうか

「俺の事はさておき、お前は教科なに担当してるんだった?」
「あ、国語です」

間違っても、斎藤先生の逆鱗に触れるような事だけはしないようにと心に誓いながら、席が隣り合っているおかげでそのままの流れで席につく

「おはようございます斎藤先生」
「おはようございます」

出勤してきた他の先生方と滑らかに挨拶を交わす横顔が、またチラリと俺を見た
「ま、気楽に行こうぜ……適切な距離を守ってりゃあ、アイツ等も手は出さねえ」

きっとよほど緊張しているように見えたのだろう
その言葉に苦笑いで返してネクタイを締め直す

「……だといいんですけど……」

とにかく、まずは最悪の事だけを考えて掛からねば

うっかりプラスに考えてその後現実との反動にヘコんでしまってはひとたまりも無さそうだ

「授業は1限目から入ってんのか?」
「あ、はい……」
「まあ、授業は慣れるしかねえよ」
「……ですね」

その慣れるまでが、今の俺にはとてつもなく長い道のりに思える……

想像しただけでも頭が痛くなるような感覚に、更なる追い風がやってきた

「あっそうだ、それよりお前、アレだろ、生活指導担当にもなってなかったか?」

まるで今思い出したという風に出された声音に、固まった身体

「…………」

そう、そうなのだ
書類の中に淡々と、あたかも普通に挟まっていたあの紙
新米である筈の俺は、何故かベテランが担当する筈の生活指導担当へと勝手に決められていた

「……はい」
「よかったなあ〜」
「よ、良くないですよ……!」

完全に他人事だと言わんばかりの態度に少し不快感を感じながら、回りに聞かれないよう斎藤先生に顔を近づけて小声で囁く

「……そ、そもそも、あり得るんですか……まだ教師1年目の人間が、生指なんて……」
「おう、俺も1年目は生指だったぜ」
「えっ!?」

けど、淡々と返ってきた返事に思わず驚いて目を開く

「うちの学校は少し特殊なんだよ……生活指導担当なんざ実質権限も仕事も無いに等しいから、いつもそこに新米を放り込む」
「え、じゃあ……どうするんですか……」
「生活指導を含めてたクラス内の事は、そのクラス担任の教師が全責任を受け持つ決まりだ」
「ええっ」

何から何まで、俺が大学で学んだ事とは違う

「ま、実際責任を受け持ってる奴は少ないけどな」

なんなんだ、ここは

「……結局はガキ共のせいにして、教師は気楽に陰気にふらふらやってらあ」
「…………」

その言葉の中に周囲への明らかな嘲笑の色が含まれていた事にも反応出来ずに、だらしなく口を開いたまま頭だけをフル回転させようと動かせば、朝のチャイムが耳に鳴り響いてようやく我に返る

「……っし、行くかあ」

朝から一人で百面相をする俺なんて気にも止めずに、名簿を持って立ち上がった斎藤先生の背中をじっと見詰めて

「んじゃ、幸運を祈ってるぜ、新米クン」
「…………」

それから俺の、教師としての怒涛の1週間が始まりを告げた




月曜日の初回の授業では

「声が聞こえませぇ〜ん」
「おいおい、苛めんなよ〜」

散々馬鹿にされて授業どころではなくなって

「えっ、なにお前、マジで先生なの?」

火曜日の昼過ぎ

廊下ですれ違った厳つい子にからかいながら脚を引っ掛けられ

「…………」
「……」

水曜日

静かに穏やかに授業を進められているかと思えば、黒板から振り返った時全員が顔を伏せて爆睡していた


そして木曜日

「……ど、どうしたの、大丈夫?具合でも悪いの」
「うるせえ俺に構うなボケ!」

怪我をしてしゃがみ込んでいた子が心配で近付けば、何故か逆ギレされて殴られてしまい

ようやくやってきた金曜日の放課後

「…………」
「おーい生きてっかー」

俺は職員室の自分の席に顔を伏せて、隣の斎藤先生から掛けられる声にも反応出来ないでいた

「…………」

つらい
辛すぎる

「……はあ、こりゃあ先が思いやられるな……」

教師って、こんなつらい職業だったのか





「…………」

まだ勤務して1週間も終わっていないというのに、もうチャイムの音を聞くのが怖い

自分は教える立場なのに、全く尊敬もされず、むしろ馬鹿にされて
名前も存在も認知されていない

頑張れば頑張ったぶんまで空回りして、足元から揺すられる

ただこの5日間で分かった事は、自分はこの正門をくぐった時点で、「人間」では無くなってしまうというという事

彼ら生徒から見れば俺は、単なる「教師」という道具にしか過ぎない

「…………」

苦しい

自分もほんの少し前までは、彼らと同じ場所に居た筈なのに

この肩書きを背負って教壇に立っただけで、その全てを拒絶され、突き放されてしまう

理解しようとしても受け入れてはくれず、ひたすらに罵られるばかり

「……疲れてるみたいだな、もう今日は授業もねえんだろ、この後と土日でゆっくり休め」

どうして隣の人や、他の先生は、ああも普通の顔をして毎日を送っていられるんだろう

「ほら、自分のぶんに買ってきたヤツだが、お前にやるよ……コーヒー飲めるか?」
「…………」

思わず今まで伏せていた顔を上げて、そう聞きそうになったけど

その質問があまりに稚拙過ぎる事に気づいて飲み込んだ

「……はい、ありがとうございます……」

駄目だ
落ち着け

今は初めてのこと続きで、少しナーバスになっているだけ

「おう、ま、気楽にな」

斎藤先生の言う通り、2日間休めば頭が整理できるはずだ

「考えすぎんのも悪くねえが、お前の場合は悪化するだけだぞ」
「……はは」

から笑いでその言葉を誤魔化して、席を立つ

「……じゃあ、お先に失礼します」

長くてつらい教師としての5日間が、正門をくぐった瞬間ようやく終わりを迎えた

ちょうど帰宅ラッシュなのか、混雑している電車に乗り込んで、窓から流れていく景色をぼんやり見詰めた

「…………」

なにも考えたくないというよりは、なにも考えられない

最近の睡眠時間を考えれば、ぼんやりするのも確かに頷ける

教師の癖に、学校が嫌で堪らなかった

まだ5日間、しかも自分が本来得意で、好きな教科を教えに行っているだけなのに

何故かそれだけのことが、辛くて辛くてたまらない

「……はあっ……」

駄目だ
きっとこんな調子じゃ、家に帰ってもろくに落ち着けやしない

そう思いながら電車を乗り換えて、ようやく辿り着いた地元の駅に少しだけホッとして

「…………」
「いらっしゃいませー」

最近馴染みの店になりつつある、駅から程近い喫茶店へと逃げるように立ち入った

「……一人です」
「お好きな席にどうぞー」

古びた、いつも人の少ないレトロな喫茶店

煎りたてのコーヒーの匂いに心が和らいで、上質な革張りの椅子へと深く腰掛けた

そう言えば、斎藤先生にも今日缶コーヒーを貰ったんだっけ

そんなことを思えばまた学校の事を思い出して頭を振る

「…………」

だめ、だめだ考えるな考えちゃだめだ

結局落ち着こうとして入った店も、早めの夕飯を食べただけですぐに後にした

「……はあっ」

だけどまだ、家には戻りたくない

そんな思いを抱えたまま、ふらふらとした足取りで次に立ち寄ったのは

「…………」

町の中でも、一番小さな図書館

子どもの頃馬鹿みたいに通い詰めて、分野なんか関係なく、ここにある本という本は全て読みきった

俺が文学を好きになった原点とも言える場所

「…………」

今の時代は活字離れが進んでいるらしいという噂はどうやら本当のようで、図書館の中には数人しか人は居ない

それが少し寂しくもありながら、反面今の俺にはとても嬉しかった事も事実で

その中でも更に人があまり近寄らない地図や古書のスペースに行って、紙が積み重なった棚に顔を埋める

「…………」

いい匂い

静かで、穏やかで、心地好い

「……はあ……」

文字が好き
言葉がすき

綺麗で、優しくて、想像力を掻き立ててくれる

沢山のことが勉強出来て視野も広がる

美しい単語は、見ることによって触れて、触れることによって感じられる

「…………」

そう

こんな素晴らしい文学の世界を、俺は少しでも多くの生徒に広めたかったんだ

「……はは……、空回りばっかりしてる癖に……」

そう呟いた途端ますます泣きそうになったから、なんとか思考を反らそうと古書スペースから離れて、専門書のある場所へ出向いて適当な本を一冊取る

「…………」

そのまま何も考えずに、丸いテーブル状の読書スペースへと腰掛けた時

「……?」

自分以外誰もいないと思っていた、このガランとした読書スペースに

「…………」

男の人がポツンと、少し離れた場所に一人座っていた

「……」

黒い短髪に合わせたような黒いタンクトップから伸びた、これまたよく日に焼けた健康的な逞しい腕が、黒いズボンに包まれた脚と同様に組まれている

ドカリとその大きな体を椅子の背凭れに預けているその人は、堀の深い強面の瞳を机にじっと向けてなにかを睨み付けていた

「……珍しい……」

俺以外に人が居るなんて

そう囁くように呟いた言葉は、相手の所に届く前に溶けては消える

「…………?」

よく見てみれば、テーブルの上にあるのは沢山の原稿用紙
小さくなった消しゴム
鉛筆で汚れた手

「……」

嗚呼
彼は、文字を書いているのか

そう理解した瞬間、何故だかその男に物凄く興味や親近感がわいてきて、手に持った本を読むふりをしてチラチラと迷惑にならない程度の視線を向ける

「……チッ」

そしてどうやら苛ついているらしい彼が、舌打ちをして乱暴な仕草で机に肘をついた時

「あっ」

その弾みで床に落ちてしまったらしい鉛筆に、俺はいち早く反応していた

「……あの、落ちましたよ」

気になって気になって仕方なかったから、こうして話すきっかけが出来たのが嬉しい

「…………」

一瞬驚いたような表情を浮かべたその人は、無愛想に頭だけ下げて、俺から鉛筆を受け取った

「……ものを書かれるんですか、凄いですね」

大学の時以来久々に出会った、文学に通じる人と話せる事は、俺の心を楽にさせる

「……こんなもん、下手の横好きだ」

とにかく、癒されたかったのかもしれない

「そんな事ないですよ」
「……なんでそんな事が分かる」

人は少ないとはいえ、ここは図書館

「字」
「……字?」

お互い囁くような小ささで、同じ原稿用紙を見つめあう

「俺、字を見れば、その人の事が少し分かるんです」
「…………」
「あなたは、言葉を書くのが好きだ」

一文字一文字に、手書きの暖かさが滲み出ている紙を指先でなぞれば


「そして、綺麗で繊細で……とても良い素質を持ってる」
「…………」

沈黙と痛い程の視線が返ってきて苦笑いをする


「あ、俺……少し前まで出版社でバイトさせて貰ってたんですよ、知り合いのつてで……」
「……出版社?」
「はい、それで、元々本も好きだし、それなりに知識もあったから仕事を手伝わせて貰ってた時に、色んな作家さんの原稿を見る機会があって」

出版社という単語に反応したその人は、どうやら俺の話に興味を持ってくれたらしい

「一人一人、やっぱり全然原稿の雰囲気が違って……」
「…………」
「文字は、その人の性格や、考え方が無意識に出てしまうものの1つなんです」

こんな初対面の俺の話を、無表情で、それでも深く聞いてくれていた

「だから、あなたの字も……見ただけでなんとなく分かったんです」

だけどそこまで言い終えた時、流石に恥ずかしくなって頬を掻く

「……なんて、俺……少し変わってるって言われるので、あんまり気にしないで下さい……執筆、頑張ってくださいね」

しまった
いくら最近疲れていて、文学について心から話せていなかったとはいえ、初めて出会った人に向かって喋りすぎた

俺、絶対に変人だと思われてる
間違いない

そんな事を思いながら鞄を持ち直して、結局ろくに読まなかった本を片手に持った時

『閉館のお知らせです』

昔と変わらない、静かなアナウンスが館内に流れはじめて

「おい、アンタ」
「?」

後ろから呼び止められて、振り返る

「……この後、空いてるか」

無表情のまま、真摯な瞳が少し離れた位置に立つ俺を突き刺す

「…………」
「本とか、そういう事についてもう少しアンタと話したい……嫌なら、別に構わねえ」

最初は驚きで、声がしばらく出なかったけど

「……大丈夫ですよ、じゃあ、この一冊だけ借りて来るので、先に外……出てて下さい」

相手の言葉を全て受け止めた時、ゆっくり微笑んで頷いていた

借り終えた本を鞄に入れて、透明の自動扉の隙間を通り抜ける

「…………」

生ぬるい風と、遠くで香る雨と

「……おい」

なにより、まだ遠くに感じる筈の夏の匂いがした

「ああ、すみません……待たせてしまって」
「別にいい」

建物を出てすぐ右の所に姿を見付けて、思わず立ち竦む

「…………」

さっきまで座っていたから、あまり気にならなかったけど

「……なんだよ」
「えっ?ああ、いえ……大きいなあと思って」

彼は、屈強な体つきに似つかわしい身長だった

「……デカイからなんだよ」
「や、意味は無いです……はい」

不味いな
話したい事は話したいんだけど、本の事以外では全く話が合う気がしない

それでも、本の事以外で話が合うよりは断然良い

「……裏に公園あるしよ、そこでいいか?」
「ああ、はい、俺はどこでも」

彼は原稿用紙が入る大きさの黒いバックをその大きな手に持って、ゆっくりと歩き出した

……それにしても、全身真っ黒だなこの人

「…………」

まるで意識でもしているかのように漆黒だけで統一された服や小物や履き物

180はゆうに越えているんじゃないかと思うような高い背丈に小さな顔

しかもまたその顔も強面で男前だから言うことがない

外見で判断なんかしちゃ駄目なんだけど、文字を書いている人にしては少し珍しいタイプだ

しかもまだ若そうに見えるから余計に

「ん、座れよ」

俺は勝手に彼のことを、「黒い人」と心の中で呼ぶことにした

「ああ、失礼します」

大人しくベンチに座れば、黒い人も俺から少し距離をあけた所へと座って

「…………」
「……」

暫くの間流れたのは、緩やかな沈黙と
木々が風にざわめく音


「……」

暑い

でも、これは不快な暑さじゃない

「……俺は」

隣で、聞き心地のいい低い声音が空気を揺らす

「……俺は、作家を目指してる」

それは囁くように小さく

「……んな事言うと、馬鹿げてると思うかもしんねえけど……」

今にも消え入りそうな程の音

「……俺は、なにかを書く事でしか……人と繋がれない」

短い眉や、強気な目元とは裏腹に
全く自信が無さそうな横顔

「口じゃ上手く表現出来ねえし、元々気が短いせいで、すぐ手が出ちまう」


鞄からあの缶コーヒーを取り出して、彼にそっと手渡す

「半分こしませんか、喉乾いちゃって」
「……ああ」

一瞬、話の腰を折ってしまったかと不安になったけど
黒い人はその後もポツリポツリと、音として言葉を発して

「紙と向き合って、なんか書いている時が……一番落ち着いた」

そして俺はただ

「最初は何でも良かった……日記でもなんでも、紙に文字が書ければそれで」

暗闇に埋もれていく影を見詰めながら

「……けど、やっぱ書いてる内に、もっとちゃんとした話が書いてみてえってなって……」

ひたすら、静かに

「んで、あんな図書館で……今ボソボソ書いてる」

黙って聞いていた

「……言えねえよ、回りにも家族にも……物書きになりてえなんて……」

コーヒー缶を指先で揺らせば

「どうせ馬鹿にされるに決まってる……」

完全に日が落ちかけて薄暗い中、遊具だけが浮かび上がるように佇んで

「……物書きは、儲かりませんよ」
「…………」
「自分の本だけで生活出来ているのは、ほんの一部の作家さんだけ……」

隣の黒が染まる

「……3年掛けて書いた本が、3日で書店から消えるなんて事がざらにあります」

本は好き

「店頭にさえ並ばない本も、数え切れないくらいあるんです……」

でも、その本を書いてくれている作家さん達は、俺たちが思う以上に過酷な世界に生きている

「あなたのような人も、俺は今まで何人も見てきました……」

そんな現実を知りすぎるのが嫌で、本の業界に就職しなかった側面もある

「だから気安く、『作家、目指してみなよ』なんて……言ってあげたいけど、俺には言えないですから……」
「…………」

黒い人は、ただただ地面を見詰めて

不意に指先を動かしたと思えば、ポケットから煙草を取り出してライターで火をつけた

「……」

整った顔が、炎の光で少し赤く照らされる

まるで、絵画のように

「……ふーっ」

煙を吐き出す仕草まで、すべて

「……そうか」

ぼんやりと何処かを見ているけど、何かを内に秘めている瞳

「……やっぱ、甘くねえんだな」

きれい

そして、格好良い

「……でも、それでもあなたが作家を目指すなら、俺は全力で応援します」
「……応援?」

この人と今回きりの出会いになるには、あまりに惜しい気がして

「せっかく、こうして出会ってお話出来た訳ですから……なにかさせて下さい」
「…………」
「あなたが、嫌じゃなければ」

いや、本当は
これからの自分の日常を堪え忍ぶ糧として、楽しみや癒しを彼に求めているだけなのかもしれない


「……具体的に応援ってなんだよ」
「まず、お話を客観的に読ませて貰って感想を述べます……第3者の意見も大切ですから」

そんな俺の事情なんて知らないまま、黒い人はじっと、探るように俺を見詰めた

「あと、明らかな文法の間違いも指摘させて貰います……勿論わざとそのような表現にしているという事であれば、無理な訂正は求めません」

高鳴る期待感を押し込めるように大きく息を吐いて、苦笑いをした

「……すみません、お節介ですよね」
「…………」
「俺も、普段の仕事が辛くて辛くて……はは、まだ働き始めて5日しか経ってないのに……」

空が遠い

「……大好きな文学の話が出来る人も、今は誰も居なくて……」

夜になると、春の匂いが薄れてしまう

「……だから、あなたにもう少し関わっていたいと思ったんです……」

子どもも散歩する人も居ない公園

「……いつ」

また、小さな声が鼓膜を揺らした

「えっ?」
「アンタは、いつ仕事が休みなんだ」

穏やかで、低い声

「……土曜日と、日曜日です」

心が落ち着く

「ん」
「?」

不意に差し出されたのは、彼が片手に持っていた原稿の入った黒い鞄

「明日休みなら、コレ……持って帰って読めよ」
「えっ……」
「読んで、アンタから見た俺に、本当に才能があると思うんなら……さっき言った風に応援してくれ」

生ぬるい風が吹き抜ける

「……言っとくが、お情けも仲良しごっこもいらねえぞ」

木々の匂いと一緒に、煙草の匂いがした

「今までプロの原稿見てきたんなら、俺に才能があるか無いか位わかんだろ」
「……あの」
「俺が本当にその厳しい世界とやらで生き残れるような作家になれる見込みがあるってんなら、明日の夕方17時……図書館のあの席に来い」

真っ直ぐな眼差しと、後ろで光る稲光

「もし見込みがねえなら……その原稿ごとアンタにくれてやる」

不意に広い背中が遠ざかる

「じゃあな」

まるで春の豪雨に負けそうな濁流

「…………」

俺は無理矢理手渡された鞄をゆっくり握り締めて、小さなため息をついた




黒い人が立ち去った後も、しばらくその場から動く事もせずにぼんやりと座っていた腰を、ようやく上げた

「…………」

恐らく俺が明日図書館へ原稿を持って行かなければ、彼は作家という夢も一緒に諦めてしまうだろう

本当に、俺なんかが決めてしまって良いんだろうか

出版社に居たと言っても正規じゃない
大学生アルバイトだっただけだ

確かに人より遥かに本は読む方だし、大学ではその分野を徹底的に勉強した

素人ではないと言えばそうだけど……でも……

そんな風にして悶々と悩みながら歩く事15分

もう随分と見慣れた、寂れ切ったアパートに帰ってきて

玄関を開けた後暗い中電気のスイッチを探す

「……ニャー」
「んー、ただいまクロ」

電灯がついて明るくなった廊下を進めば、飼い猫であるクロが歩いてきたからその身体を抱き上げて、ほほを擦り寄せた

「今日はお前に少し似てる人に会ったよ」

片手にクロを、そしてもう一方の手に荷物を持って、更に奥のワンルームになっている部屋へと向かう

「全身真っ黒の服着てさ……肌も黒いんだ」

相変わらず汚くて狭い部屋

「それで強面で、おっきくて……」

朝出ていったままにされてある食器を洗いながら、小さく呟いて「……作家を目指してるんだって、凄いね」
「ニャー」

その無機質な相槌に薄く笑う

「……はいはい、ご飯ね、ちょっと待って」

食器を洗い終わったあと手を拭いて、クロの晩御飯を準備してから俺はシャワーを済ませた

「…………」

あの雨雲のせいだろうか
今は雷雨が酷い

「……ニャー」

髪を拭きながらカーペットの上に座れば、俺の膝の上に我が物顔で丸まった黒い背中をそっと撫でた

「……お前は雨が嫌いだもんな」

建物の屋根を大粒の雨が叩いて、滝のように水が滴り落ちてはベランダのコンクリートに跳ね返って弾ける

「…………」

雷が鳴った

クロは不快そうに更に背中を丸める

「……さて」

俺はと言えば、ようやく少しは綺麗になった部屋で、黒い人に渡された鞄を開いて原稿用紙を取り出しつつ指先で空気をなぞる

「…………」

今時全てを手書きで書くなんて、珍しいひと

作家さんの原稿を見てきたとは言ったけど、ほとんどはパソコンで出力された紙に、手書きで修正や付け加えがあるものが殆どだったから

「……」

この暖かい雰囲気が溢れる原稿に口角が上がる

彼の字は好きだ

「……楽しみだねー、クロ」

不器用で、がさつで、大胆で

「ニャー……」

なのにどうしようもないくらいに繊細で、美しくて、儚い

「…………」

震えに似た筆跡を追うように、原稿用紙の1番目を指先で開いた

「……ホント、良い字……」

彼が言った通り
同情や私情に流されたまま読んじゃいけない

真剣に向き合って書かれた原稿を渡してくれたあの人に、俺は敬意を払って厳しい目で読まなければ

「…………」

今甘やかしたところで、彼の為には全くならないんだ

クロが喉を鳴らして膝から抜け出した

雨は、まだ止む気配が無い


[←前|次→]
[←戻る]