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[美しい世界]
佐鳥知代





 日はどんどん傾いていた。
 深い赤が室内を染め上げ、未完成の木彫を照らし上げていく。
 そんな中でひとり、木で組まれた四つ足の箱椅子を軋ませて美術室の片隅に佇む。

 公募展の締め切りは近い。しかし自分に緊張感はなく、固い椅子にただ腰を落ちつけている。
 足元に散らかした木屑は辺りに散乱し、風が吹くたびに少し揺れた。ノミや玄翁といった道具は、右手の机に放置したまま。
 片づけなければいけない。そう思いはしても、実際なにもしていない。ただ足をぷらぷらと伸ばし、箱椅子の上に座っているだけだ。

 制作を完全に中断して時間を消費していると、不意に反対側の廊下から足音が響いて顔を向ける。この時間帯に校舎の四階へくる人間は決まっていた。顧問だ。開け放したままの入り口を端から見つめること一分。近くなった音と一緒に現れた人物は、予期していた顧問の姿と、まったく違った。

「ああ、なんかいい匂いがすると思ったら、ここか……」

 まず目に飛び込んだのは、キラリと光を反射するサングラス。完全に回りの景色を反射している。色も濃くスポーツ用のもので、目の回りをすっぽりと覆い隠すようなデザインだ。
 短髪で、眉がきりりと上がっている男は、全体的に近寄りがたい雰囲気を纏っている。
 沈みかけている夕日は、橙色のフィルターで覆われた世界を作り出していた。突然の訪問者に、ぎこちなく足を床につけて、ギシリと鳴らす。その音に反応して向けられた質問には、体を強ばらせて頷くしかなった。

「おう、入っていいか?」
「は、はい……どうぞ」

 こちらの返答を聞き、男はゆっくりと靴音を鳴らして教室内を歩き回った。
 その度にふわりふわりと揺れる短い髪は、脱色しているのか色素が薄く、ギラギラとしたサングラスがよく映えていた。しかしなぜこの男が美術室にいるのか、まったく理解できなかった。
 高堂要といえば、学年で一番目立つグループの中心人物だ。四人で登校してくるのが有名で、見た目から判断すれば完全な不良である。
 自分が一生仲良くなることはない種類の人たちではないか。警戒心を解かぬまま、しばらくゆらゆらと歩く男を、息を殺して見詰める。
 男は最後には真っ直ぐに自分の作りかけた作品のある場所へとやって来て、歩みを止めた。

「おお、案外デケエな。なんセンチあるんだ?」

 目元が覆われていて表情が乏しいぶん、落ちついた低音を放つ声の抑揚から感情を読み取るしかない。しかしこれは、思った以上に大変なことだった。

「い、一メートルと四十センチ……です」
「これ、触ってもいいのか?」
「は、はあ……どうぞ」

 作りかけとはいえ、作品を乱雑に扱われるのではないかと一抹の不安も覚えたものの、ポケットに突っ込まれていた彼の右手が荒削りの木に触れた瞬間、そんなものは消えた。

「なんの木だ」
「ひ、ヒノキです……」
「へえ、それでこんなにいい匂いがしてたって訳だな」

 まるで繊細な細工品を触るように。指先と手のひらで形状の全てを丁寧に撫でる仕草には神経が遣われていることも一目瞭然で、見た目の強面さからはかけ離れた印象にぱちぱちと目をしばたたく。

「こんなモン作れるなんて、お前スゲエな」

 一通り撫でたあとにまた手をポケットへ仕舞った男に、居心地悪く頭を掻いた。

「いえ……そんなこと、ないですよ。作る気がある人なら、練習さえすれば誰だって作れますから……」

 同級生なのにため口のタイミングを完全に失い、なぜか変に堅苦しい敬語になってしまう。
 強ばった声音に気づかれたのか、静かに向き合っていた高堂は、次の瞬間その強面に似合わず今よりも更に柔らかな声に色を変えた。まるで、こちらを気遣うように。

「いきなり俺みたいなのが来て、怖えのは分かるがそんなに緊張すんなよ。乱暴したりしねえから」
「は、はあ……」
「お前、名前は」
「佐鳥です……佐鳥知代。えっと、三年の」

 そこでようやく自らの学年を伝えたところで、前の男は少しきょとんとした表情をしたあと、口角を上げた。

「なんだ、同期かよ。敬語なんて使うからてっきり下かと思ったぜ」
「ああ、うん……。まあ、一応バッジの色を見てもらえれば、いつか気づいてもらえるかと……」

 我ながら見苦しく、言い訳にもなっていないような台詞に曖昧な笑みだけで返されて、ますます居心地悪く肩をすくめた。
 けれど気まずさをさして引きずることもなく、不可解な組み合わせとしか思えない自分たちの会話は続いた。

「そういやさっき、やる気があって練習さえすりゃあ誰でも作れるって言ってたな。本当か?」
「ああ、まあ、ある程度までは作れると思うけど……」
「へえ、楽しそうだな。俺もいつか作ってみてえ。だいたい彫刻って、どういう風に彫るんだよ。道具は?」

 まさか興味があるのだろうか。こちらに合わせているというより、本当に気になっているから聞いているような口調に、悪い感覚は抱かないがいかんせん未だに違和感と緊張が残る。けれど、聞かれたからには答えない訳にはいかなかった。

「道具は、まあ基本的にノミと玄翁さえあれば……細かい作業のときなんかは彫刻刀を使う人もいるけど」
「ゲンノウ……?」

 眉を潜め聞き返された言葉に、自分が無意識に難しい言葉を選んでいたことに気づき、すぐさま分かりやすい言葉で言い換える。

「あ、玄翁っていうのは金づちみたいなものだよ。ノミを打つための道具」
「へえ。案外力仕事なんだな。大工みてえ」
「はは、変わりないかもしれない……大きい作品なんか作るときは、本当に大変だから」

 自分がある程度知っている分野の中で会話をするぶんには、こうやって少し笑えるくらいの余裕はある。けれど、いつも上から見下ろしていた印象よりはかなり物腰が柔らかい人だ。
 派手な見た目と裏腹に、かなり落ち着いた対応をしてくれる。それに、過去にこのような外見をしたクラスの派手な人たちから気まぐれに受けた、こちらを蔑んだりからかったりするような素振りも微塵だって感じない。

「だろうなあ。こんなデカイと、男だって大変だと思うぜ。お前、よくここまで削れたな。最初はこれだって長方形か円柱だったんだろ?」
「あはは……まあ、いきなりこういうのを彫った訳じゃないから。慣れだよ。だんだん大きくしていったら、大変だけど不可能には思わないから」
「なるほどな。段階を踏むって訳か。今のこれは、完成度としてはどの辺りになるんだ?」

 限りなく平等で、気さくで、ある意味普通の態度には、最初あれほど強かった警戒心も次第に薄れた。

「完成度としてはまだまだ途中。三割くらい」
「これで三割か。完成した他のやつはねえのか?」
「ああ、作品? あるけど、これより小さいよ」
「構わねえよ、お前さえよかったら見せてくれ」

 こちらを気遣う配慮さえのぞく言葉には、気にしないでと返事をした。
 自分の作品を見られるのは少し恥ずかしいけれど、かたくなに断るほどの意味はない。作品と言いながらも奥の準備室へ乱雑に置き散らかしてある過去に制作したものの中から、手頃な作品を取り出して運んだ。

「はい、これ」

 言いながら手前の机に置いたのは、植物を忠実に彫り上げたシリーズものの連作。
 実物よりどれも二回りほど大きく、両手にどっしりとおさまる程度。

「左から薔薇、牡丹、百合になるんだけど」

 誰に見せても理解できるものだし、一般の人には難解な抽象作品よりはマシだろうと引っ張り出したものに、作りかけの作品の前からゆらりと踵を返しまっすぐこちらへ歩みを進めてきた彼は、案の定分かりやすくほどのリアクションをくれた。

「うお……すげえ……」

 見てからでなく、触れてから。繊細な指先で形状を記憶するように何度も同じ場所を這わせ、壊れ物を扱うように持ち上げる両手は優しく、囁くように話す声音は本当に心底驚いているようだった。

「これ、お前が作ったのか……?」
「うん、まあ……」
「鳥肌が止まんねえ……マジで感動する。綺麗だな……実物の花が目に見えるみてえだ」

 まだまだこんな自分が作ったものに、純粋にそう言われ、あまりのむず痒さになにを返していいのか分からなくて頭を掻いている間にも、堪能するように次の牡丹や百合にも触れていく掌をじっと見つめる。
 夕日が染め上げる部屋に藍色も漂い始める美術室は静かだ。
 グラウンドから響く運動部の掛け声が、いい音楽に聞こえるくらい。放っておけばいつまででも作品を触っていそうな彼に、さすがに少し苦笑したとき。ようやくコトリと作品を置いた高堂が、思いもよらないことを口にした。

「なあ、俺、美術部入っていいか?」
「えっ?」
「そんで、お前が暇なときとか手が空いたときでいい。その合間だけ、俺に彫刻、教えてくんねえかな」

 冗談だよねと言いかけて、すぐに言葉を飲み込む。
 この雰囲気は、そんな冗談とはかけ離れていたから。だから、思うままのことが喉から音としてこぼれ落ちる。

「あ、いや、でも……私だってまだまだ素人っていうか……。人にちゃんと教えられるかどうか……」
「別にプロになろうって訳じゃねえんだ。基本さえ教えてくれるなら、なんだっていい。最近趣味もなかったから、気分転換がしたい。俺の気なんてそんなもんだ。それにお前は充分、俺からしてみれば作家だよ」

 確かに自分以外に部員が欲しいとは思ったけれど、まさかこんなにも唐突にやってくるとは思わなかった。
 しかもこんな怖そうな外見で、一見してみれば真逆の存在に近いような彼が。

「なあ、いいか?」

 相変わらずギラギラとしたサングラスに覆われた目元は全く見えず、目に痛い色をしたレンズもこの周囲にある景色を反射しているだけ。
 自分の望んだ気楽な友達からは程遠い。けれど、悪い人じゃないことは分かる。

「……いいよ。今日帰るとき、先生に話してみるね」
「いや、俺から話す。顧問は吉田だったか?」
「うん、そう。吉田先生」

 奇妙な会話。不可解な組み合わせ。それでいて、きちんと意志疎通ができている。

「お前はいつ居る?」
「んー……ほぼ毎日」
「熱心なんだな」
「あはは、まあ制作もあるんだけど。自分の家……あんまり好きじゃないから」

 きっと二人きりだから、こんなにもなめらかに話せるのだろう。これが彼にいつもの取り巻きがついていたならば、同じ会話ができるかは分からない。

「じゃあ明日からよろしく、佐鳥」
「あっ、うん。よろしく、高堂くん」

 無意識にその名を呼べば、目の前の人は少し驚いたような反応をして、首をかしげる。

「……俺はいつお前に名乗った?」
「ああ、ごめん。いや、確かに名乗られてなかったけど、知ってるよ。高堂くんは有名だから」

 その台詞には全く悪意を込めたつもりなかったけれど、相手の取り方によっては不快さを与えてしまったかもしれないということに気づき、緩衝材をすぐに探す。

「あ、いや、別に悪い意味じゃなくて……」
「おーい高堂ぉー! どこだよ!」
「!」

 そんな自分の言葉なんて掻き消す勢いで突如廊下から響いた声に、彼はいち早く反応を示した。

「……チッ。先に帰ってろっつったのに……」

 言うや否や、踵を返して出入口へと向かう背中をぼんやりと見つめていれば、ヒラヒラと片手を振られた。

「慌ただしくて悪い。アイツらはここに連れてこねえから、安心してくれ」

 夕日に滲むようなその言葉を聞いて、ほっと胸を撫で下ろす。

「あっ、お前! 探したんだぞ!」
「ばか野郎、帰れって言っただろ」
「別にお前を待ってた訳じゃねえよ。与四郎の部活を泰助と一緒に見てたら遅くなったから、お前の時間に追い付いちまっただけだ」

 扉の向こう側。影が濃くなった廊下で行われる会話は、自分が知らない別世界。

「おーい泰助ぇ! 居たぞ!」
「うるっせえな……人を迷子みてえに言うんじゃねえ。余計なお世話だ」

 さっきまで普通に会話をしていたはずの高堂は、今はもういつも私が窓から見ている遠くの人へと、瞬く間に変貌していくようだった。

「まあまあそう照れんなって。で、お前はこんな場所でなにしてたんだよ。補習は一階下だろ?」
「散歩だよ、散歩」






 火曜日と木曜日と金曜日。彼は本当に美術室へとやってきた。

「おす」
「ああ、高堂くん」

 顧問は快諾したようで、彼に彫刻の基礎だけは教えてもいいと了承もした。けれど条件を付けられた。
 高堂くんに刃物を使わせないという、大きな制約を。

「そこに出しておいたから。ビニールとタオル外して、乾いてる部分があったら机の端にある霧吹きでまた濡らしてね」
「ああ、サンキュー」

 けれどそれは逆に助かった。慣れていない人が刃物を使って作業をすると、大怪我に繋がりかねない。
 手軽で分かりやすい手段として、粘土での模刻を選んだのは間違いではなかっただろう。実際、立体物に対する感性を養うには、これが最も実践的だ。

 粘土は形の追求がしやすく、付け足したり削ったりも自由自在の材質。いくら失敗したってやり直しがきく。見たもの、あるものを寸分の狂いなく同じように仕上げる難しさ。それは言葉では言い表せない。彫刻をする者ならば誰しもが行う、まさに彼の望む『基礎』だ。

「にしても、ただのカボチャだってえのに、全然作れねえモンだな」

 案の定、初めての作業や観察に彼も戸惑っているようだったけれど、そのわりにセンスはよかった。

「全然大丈夫だよ。いい感じに進んでると思う」
「そうかぁ? 大体デカさは合ってきたと思うんだが、いまいち要領が掴めねえっていうかよお……」
「あはは、そこはもう、実物と対話して地道に粘土と合わせていくしかないよね」

 慣れない内はついつい細部へ偏りがちになってしまう作業も、最初から量感やざっくりとしたフォルム合わせから入れている。しかも、あまり狂いがない。
 彼の制作風景を見ていると、気持ちいいくらいに迷いがなかった。大胆に粘土をつけたかと思えば、惜しげもなく削っていく。慣れていなければできないことだ。本当にセンスがある。
 モチーフの構造についてヒントや説明を与えられずとも、立体物を感覚で理解する、圧倒的なセンスが。

「お前も最初は、こういうやつ作ったのか?」
「うん。私もカボチャだった」
「うまくいったか?」
「あはは、それがもう全然。お話にならなかった。高堂くんの方が圧倒的に上手だよ」
「冗談止せって」

 言いながら笑い、粘土を削る道具のベラを何気なく動かす仕草すら、理にかなっている。
 特に難易度が高い地面と作品の接地面は見事だった。美術に少し通じている者なら誰でも気にする箇所であり、審査員も必ず見る。
 未だに自分でも立ち上がり部分が怪しくなることが多々あるのに、彼の作品は自然で、かつ実物に忠実だ。
 経験がないせいか素直にそのまま作り上げているものには、好感が持てる。
 ついつい自分のいいように、より格好をつけようと造形に色をつけてしまう傾向を見直すきっかけにもなった。

 素朴で、野心もない作品は素敵だ。怖いくらいに。
 まるで小さな子が描いた無垢な落書きに、描写力を極めた画家が衝撃を受けて立ち上がれなくなるような。「純粋」に勝るものなどないのだと突き付けられ、己の小手先にしか過ぎない作品がとたんに陳腐なガラクタに見えてしまう落胆に似ていた。

「っし、そろそろ細かい部分に入るか」

 相変わらずギラギラと光るサングラスは外されず、口元だけ笑みを浮かべた彼が再び神経を集中させていくのを見て、自分もノミと玄翁を握り作業を再開しようと手を動かした。刹那、突如入り口から響いた声に顔を向けた。

「おーっす、要ー。なんだ、お前ホントに美術部入ったんだ!」
「うわっ、カボチャなんか作ってんのかよ!? すげえ!」

 するとそこには、高堂の取り巻き三人全員が揃い、ぞろぞろと足を踏み入れてきた。
 派手な金髪が目立つものの柔和な顔をした久住泰助。その隣に続く黒髪でいかにも柄が悪そうな歩き方をするのは、初日の夕方、廊下で高堂と言葉を交わしていた友岡遊作。

「おい、止めておけ。高堂のプライベートだぞ。すまん、すぐに出る」

 そして最後遅れてやってきた、短髪でつり目のスポーツマンが印象的な、強面の鈴江与四郎。
 全員が全員、同学年の間では高堂に引けを取らぬほど有名人だ。いい意味でも、悪い意味でも。

 突然の訪問者に自分が硬直している間にも、眉間に深く縦皺を刻んだ彼は、ビクリと肩が跳ねそうになるほど低い声で相手の方も見ず口を開いた。

「テメェら……来るなって言ってあっただろ。邪魔だ。気が散る。与四郎、さっさと引き摺って帰れ」
「分かった。本当にすまない。俺が目を離した隙に逃げ出した、もう同じミスはしない」
「なんだよ、離せって」
「うるさい、だから行くなと言ったんだ。帰るぞ馬鹿共」
「ちぇーっ」

 一瞬でやってきたかと思えば、また一瞬で去っていった嵐。がっしりとした鈴江に引き摺られていく左右の男の内、金髪の久住泰助が不意にこちらへ視線を向けて、あろうことかにっこり微笑んでは無言で手を振ってきた。
 それにとりあえずペコリと頭を下げれば、同時にピシャリと美術室の扉が閉じられ、また二人きりの空間に戻る。
 静寂は、そう長くは続かなかった。

「……悪い。来るなって言ってあったんだけどよ。ビビっただろ、もうマジで来させねえから」

 言いながら気まずそうに頭を掻いている人が、こちらを気遣ってくれているのは明白。
 確かに少し怖かった。けれど、こうしてまた静かな環境をすぐに作ってくれた彼はなにも悪くない。
 そして向こうの集団にも、悪気はなさそうだった。だとすれば自分が責めるべき相手など、最初からどこにもいないのだ。

「ああ、気にしないで。ああいうこと、たまにあるから」
「なんだ、誰か来るのか?」
「まあ、たまにね」

 一言でまとめてはみたけれど、興味本意で美術室に入ってきた輩から、理不尽な仕打ちをされたことがない訳ではない。
 時には乱雑に作品を扱われ、オモチャのように傷つけられ、創作意欲も失い投げ出した作品もいくつかある。
 しかし普通の学校で生活していれば、そういうことだってあるのだ。なにも言い返せなかった自分も悪い。作品を諦めて、結果的に私は自分を守ったのだから。

「……鍵、閉めちまえばいいだろ」
「あはは、でもホント、たまにしかないから。いつも忘れた頃に来るんだよ」
「今みたいにか?」

 それに言葉は続かず、苦笑いだけしながら制作に戻る。けれど彼の方が集中力の糸がプツンと切れてしまったようだ。近くの椅子に腰掛けては、こちらに向かいゆっくり続けて口を開いた。

「それ、間に合いそうなのか?」
「ん? 作品? ギリギリかなあ。でももう搬入業者の人には連絡しちゃってるから、仕上がらなくても出すしかないね。いや、まあ、頑張るけど」
「いつからやってるんだ」

 今まで他愛のないことしか話してこなかっただけに、一歩踏み込むようなその質問に目を細めて、それでもただ静かに言葉を返した。

「一応、小さな頃から」
「そういう環境だったのか」

 それを聞かれるのは、あまり好きではない。けれど、これにすら相手に悪意はない。
 隠し続けることに意味はないし、むしろそんなことをしていたら余計に自分がこのことを気にしていると思われる。
 そんな風に捉えられるくらいならば、最初から吐露していた方が楽だ。

「うち、一応そういう家系だから」
「そういう家系……作家か。彫刻してんのか?」
「……そう、お父さんがね。お母さんは日本画」
「へえ、サラブレッドだな」
「はは、そんなんじゃないよ……」

 父と母は関係ない。あの人たちの才能を自分が受け継いでいるとも思わない。
 作ることは好きだ。今回だって作品展に応募する。けれどそれは自分が決めたことではなく、顧問が勝手に手続きの全てを済ませたからだ。

 作家になろうとは全く思っていないどころか、大勢の人に自分の作品を見てもらおうとも思わない。私にとって昔から制作はただの趣味であり、自己主張の手段ではなかった。

「謙遜すんなって。家系のことを差し引いてもお前、スゲェじゃねえか」
「普通の人から見たらね。だけど、私みたいなのは探せば沢山いるんだよ。他の美術を専門にしてる高校とかに行けば、もっと凄い人たちが沢山」

 身近なところで言えば、とりわけあなたの方が。
 そう言った瞬間、向こうに腰掛けていた人はガタリと椅子を鳴らし立ち上がった。そのままなんの迷いもなく近付いてくる無表情と威圧感に右足だけ下げれば、古い床が軋む。

「逃げるな」

 この人がすぐ隣で自分の作品を見たことはあっても、私自身を見たことはなかった。
 それが今、少し腕を伸ばせば触れられそうなすぐ目の前に、真っ直ぐこちらを向いた彼がいる。
 あまり意識していなかったけれど、案外背が高い。仰ぎ見るような格好でそんなことを冷静に考えているけれど、動揺は隠せず冷や汗が額に滲んだ。
 とにかくお互い怪我をしないようにと、手にしていたノミと玄翁は机に戻す。それと同時に、彼は柔らかく口角を上げた。

「……いい子だ」

 言いながら伸ばされた指先が、まず肩に触れる。次に首筋、顎を伝い、流れるように頬へ。撫でるように滑らかで繊細な仕草は、作品を扱うときとなんら変わりない。こんなに至近距離で異性に触れられることに不慣れで、戸惑いが止まらず汗と熱が止まらない。

「た、高堂くん……!?」
「もっと自信を持て。お前は客観的に物事を見られるが、自分のことは卑下しすぎてる」

 いや、言葉はありがたいけれど、こんなに触れる必要があるのだろうか。突き飛ばすほどの理由はなく、どうすることもできない自分に、彼は優しく繊細な声音と指で私を撫でる。

「お前は綺麗だ」

 自分の外見が世間から見てどの程度なのか、嫌というくらい知っている。だからお世辞は嫌いだ。特に容姿に関するものは。しかし彼の言葉は、どこか違う。

「俺には分かる。お前はいいヤツだし、頭がよくて心が綺麗だ。そうじゃないと、あんな作品は作れねえよ」

 これは表面でなく、中身を褒められているのだと瞬時に感じた。
 さして自分の中身もいいとは思えないけれど、せっかく善意でいってくれていることを無下に否定はできない。未だ頬に添えられた両手に苦笑しながら、小さく返した。

「……ありがとう」

 それにまた短く笑った彼は、あろうことか自分の方へと顔を寄せ、額をこつんとつけてきた。

「おい、頼りねえ返事だな。自信持てよ、分かったか?」
「ひっ! た、たった高堂くん!? 近いね!? うん近いよ!?」

 吐息が掛かるほど近い距離。ギラギラと光るサングラスが目の前に迫り、自分の情けない顔が反射しているのが見える。明らかに普通とは言えない事態にも、彼は平然とした口調で言葉を紡いだ。

「嫌か?」
「い、嫌っていうか近いよね!?」
「ああ、だから、嫌か?」

 噛み合わない。いや、噛み合っているが噛み合っていない。どうしてこんなに近い距離で話し合う必要があるのかと問う自分に、この人は不快かそうでないかを問う。微妙にすれ違っている会話は奇妙なまま、結局押し切るように続けられた。

「こうしてると落ち着くんだ。少し付き合え。変なことはしねえよ」

 こんなことをして落ち着くなんて、はっきり言って変わっている。
 けれどそれは口に出さず、ただこの至近距離にこちらこそ変な意味を見いださぬよう、必死に意識を逸らした。

「だ、誰にでもするの……? これ」
「いや、お前だけだ。今のところはな」

 けれど、そんな言い方をされると戸惑ってしまう。
 一体どんな意味があるのか。私をからかっているのか。そんな混乱は、この沈黙を噛み砕く内に少しずつ冷静さを取り戻していった。

「た、高堂くん……?」
「ん?」

 ぴくりとでも表情を動かせば、なにかしらの反応を落ち着いた動作で返してくれる。彼のこんな行為には、自分が思っている以上の意味がある。そんな予感がなぜか胸をくすぐった。

「……あの」
「悪い、さすがに嫌だよな。長時間好きでもねえ男とこんな格好は」

 なにを問おうかすら定まっていなかった口が動いた刹那、名残惜しそうに離れていく両手と距離。

「…………」

 自分は彼に恋愛感情なんていない。そしてそれは、あの人も同じ。分かる。あの行為には、異性と接触するだなんて低俗なニュアンスと全く違う、もっと深く繊細な意味が込められているのだと。

「あーあ、気分も乗らねえし、今日はもう帰るとすっかな」

 言いながら大きく伸びをして踵を返した人が、歩きざま空いた机に半身をぶつけ、舌打ちをする。

「チッ、痛えな」
「あはは、ちゃんと見てないからだよ。あっ、私が後の処理しとくから、作品はそのままにしてくれていいからね」
「分かった」

 こちらの言うことには素直に従い、さして粘土も触っていないせいか汚れてもいなかった手で鞄を掴んだ背中が遠ざかる。

「じゃあな。また今度」
「うん、気を付けて」

 前を見たまま素っ気なくひらひらと振られた手に、自分もまた見ていない相手に向かい、ひらひらと振り返した。 帰宅したのは、ちょうど十九時。

「ただいま」
「ああ、おかえり知代。今ご飯できたから、手を洗っておいで」
「はーい」
「あと、お父さん呼んできて。アトリエに居るから」
「えーっ」

 お母さんと交わすこんな会話も、もはや日常の一部になっている。
 鞄を置いて手を洗い、一階のアトリエへと再び下りて扉を開く。その瞬間、カンカンと鳴っていた音がピタリと止んだ。

「ああ知代、おかえり。ご飯かな?」
「うん」

 あまり見ないようにしているけれど、視界に入ってくる父の作品は、いつもながら凄い。
 もはやなにがどうなっているのか分からないくらい、格好いい。

「今どのくらいなの?」
「うーん、ほぼほぼ完成かなあ」

 いつも搬入ギリギリまで、「もう間に合わない、でもこんな状態では出せない」と言いながら作業している父にしては珍しい。
 制作の場から居住空間へと切り替わるリビングへ続く二階へと続く階段を踏みしめながらそんなことを思っていれば、後ろから更に言葉は続く。

「今回はなんだか上手く作業が進んでねえ、余裕がありすぎて小さな作品も気分転換に作っているくらい」
「へえ、よかったね。いつだっけ、個展」
「来月の頭からだよ」

 聞いたけれど、知っている。東京の一等地に立つ美術館を大々的に使った個展だ。ポスターは美術室にも貼ってある。
 素直にすごいと思う。けれど、プレッシャーのようにも感じて気分は複雑だ。
 父を越そうとも、越したいとすらも思わない。ただただ尊敬している。
 母も同じだ。日本画壇屈指の女流作家。
 両親と美術館を歩けば、周囲の目が痛かった。

 娘さんも美術をするの? きっとご両親に似て素晴らしい作家になるに違いない。作品を見せて欲しい。今のうちに買わせて欲しい。
 悪意はないにせよそんな扱いはとても不快で、あの感覚は言葉で形容しがたい屈辱的な気分へと私を追い込む。

「あら、早かったのね」
「まあね。今回は順調だから」
「ふふっ、あなたそういうとき、いつも最後の最後でとんでもないポカしちゃうから、気をつけてね」
「はーい」

 二人は人としても素晴らしく、偏屈なところもなければ仲が悪くもない。
 親としても広い心を持ち自分と接してくれているのが分かる。

「知代はどう? 作品」
「んー……別に」

 だけれど、この家はとても居心地が悪い。
 言葉数少なくご飯を終えて、食器を洗い終えては着替えを取り、風呂場へ向かう。
 両親とあまり美術や作品の話はしたくない。自分がいかに下らないことを言っているのか、その現実を叩きつけられそうでなにも話せなかった。
 また周囲から向けられる言葉も両親に向けたものが多く、自分は伝書鳩のように誰々さんの作品についてどうだとか、そんなことを喋ってばかり。
 誰が私のことなど見ているというのだろう。価値があるのは私ではなく、この血統書なのではないのか。

 両親が好きだからこそ辛い。あなたたちに見合うような娘ではない凡庸な自分が、すごく情けない。
 嫌なことばかり考えてしまう頭を振り切るように風呂から上がれば、珍しくリビングに残っていた父が右手で私を呼ぶ。

「知代、おいで」

 素直に近寄りなにと聞けば、にっこりと微笑んだまま腰を上げた背中に続き、自分も歩く。

「今回だけ、僕の作品を見て欲しいんだ」

 普段そんなことを強要しない人なだけに、気は進まずとも大人しくアトリエへと足を踏み入れた。

「さくさく進んで本当に良かった。母さんの言うように、あとはポカさえしなければいいけどね」

 先ほど一瞬見たけれど、やっぱり美しく、かつ隙がない作品だ。こちらは背面だというのに、それだけでビリビリと痺れるほど作品の素晴らしさが分かる。

「正面から見てごらん」

 手を引かれ導かれるように見据えたその姿に、息を飲んだ。女性の像だ。
 ピエタのように繊細で、今にも吐息をこぼしそうな。風でドレスのスカートがふわりとなびき、重い木彫だなんて感じさせない軽やかな空気を感じる。
 遠くを見つめる憂いを秘めた眼差しや、耳に髪をかけるしなやかな指先。こんなにも美しい人がここに居たのかと、手を伸ばしそうになるほど美しかった。

「いつもは途中で迷走するんだが、今回はモデルが明確だったからぶれなかったんだよ」
「モデル、いるの?」
「ああ、母さんと君だよ」

 それを聞き一瞬耳を疑うも、隣の人はただ穏やかに言葉を続ける。

「僕にとってもっとも大切で、かけがえのない理想の女性像。君たちの全てをここに詰め込んだ。身近で思い入れがありすぎるものは、作品として仕上げるには逆に難しいと思ったんだけど、作り始めたらそんなことはなかったよ。少なくとも今回はね」

 外見から言えば、こんなに美しいとは思えない。けれど、少なくとも父にとっては美しいのだろう。私や母が、これほどにまでいとおしい存在なのだろう。
 そんなぬくもりや愛情を感じる。作品の全てから、こちらに伝わってくる。

「君は美術館にはあまり来ないからね。だから今、見せておきたかった」
「お父さん」

 隣にある作業着の裾を引き、真っ直ぐ見上げる。

「なんだい?」
「大好き」

 滅多に告げないこんな言葉にふわりと笑んだ父は、ありがとうとだけ告げて次に右端の作業スペースへと導いた。

「ほらこれ、息抜きで作っていた作品。どうだい?面白いだろう」

 茶化したように弾む声に、自分まで吹き出した。

「ぷはっ! なにこれ!? 気持ち悪っ!」

 達磨が四体積み重なったような奇妙な物体はどの達磨もおかしな顔をしていて、本当に息抜きで作っていたのだなと理解できる。馬鹿馬鹿しいのに一々造形美まで追求されているのだから、天才の片鱗はこんな場所でもキラキラと光った。

「僕はこっちの作品も好きなんだけどねえ。出すのはダメかな」
「いや、お父さんがいいと思うならいいんじゃない? でもほんと、ふふっ、気持ち悪い」
「これからアクリルで色もつけて更に気持ち悪くしようかと」
「あははっ! やだそれ、絶対ヤバい!」

 一度砕けてしまえば、居心地の悪さは薄らいでいく。元々は両親が悪い訳ではない。自分が勝手に避けているだけ。

「あー面白かった……」

 ひとしきり他の作品にもここぞとばかりに触れ、最後にもう一度メインの作品を振り返る。

「綺麗……」
「そうだろう? まあ、納得していない部分はまだあるから、微調整はしないといけないけど」

 不意に、この作品を彼にも見て欲しいと思った。本物の天才が作る作品を、彼の繊細な指でも触れて感じて欲しい。きっといい刺激になるはずだ。

「これ、触っていいの?」
「ああ、もちろん。僕はむしろ作品を触って欲しいタイプだ。劣化するからダメだと、美術館側に止められるから向こうでは触れないけどね。だから今のうちに触っておいた方がいい」
「あの、友達にも見せて触らせてあげたいんだけど」
 自分は滅多に自宅へ人を招かない。それが父のアトリエにとなれば、なおさら。初めての申し出に少し驚いていたらしい父も、なにか訳があるのだろうとすぐに表情を和らげてくれた。
「もちろん構わないよ」

 その言葉に甘える形で、本当に彼が美術室へと再び顔を出した日、放課後の制作を終えると同時にさりげなく口を開いた。

「あ、高堂くん」
「ん?」
「今日このあと……暇?」
「なんだよ、デートの誘いか?」

 完全に茶化したような口調にも、冗句で返すすべも持ち合わせていないおかげで、無機質に否定を重ねる。すると彼は居心地が悪そうに頭を掻いた。

「バカ……冗談だよ。で、放課後がなんだ?」
「うちに来ない?」

 至って簡潔にまとめたその台詞に、なぜか彼は数秒間硬直し、ピクリとも動かなかった。それにもしや変な意味で捉えられているのではないかと察した瞬間、否定しようと慌ててかぶりを振った。

「いや、あの、言い方が悪かったね。うちの一階にある、お父さんのアトリエに来ないかなって。搬出前の作品があるんだけど、美術館で個展が始まったら触れないから、高堂くんさえもしよければ触れる内に見てみない? 本当に、私なんか比べ物にならないくらいすごいから。いい刺激になると思う」

 焦りはしたが嘘ではなく、全てが本音。それを彼も察したのだろう。少し笑んで言葉を返した。

「ああ……いきなり家に来るかなんて聞くから、びっくりすんじゃねえか。作品か。見てえなあ、プロなんだろ、お前の父さん」
「うん」
「場所はどこだ?」

 食い付きはよかったけれど、彼はやけに慎重だった。

「場所? えっと、ここから電車で少し行った美方駅の近くだけど」
「美方? やけに都心が近いな」
「うん、けど、繁華街の方とは反対方面だよ」
「そうか……」

 そんなに人混みが嫌いなのだろうか。深く考えるような仕草をする彼に、無理に来なくていいよと口を開こうとした刹那、遮る形でそれを止められた。

「分かった、行く」

 まるでなにか重い決断をするかのような横顔に首をかしげ、サングラスに覆われた目元を見つめる。

「教室に忘れモンしちまったからよ、少し待っててくれ。すぐ戻ってくる」

 言いながら滑らかな足取りで出ていった人の背が、滲み始めた赤に染まっていく。
 コツン、コツンと響く靴の音が遠ざかっていくのを聞いて、とうとう耳に静寂が染み込んだ刹那、もう戻ってきたのかというタイミングでまた靴音が鳴る。
 着々とこちらへ近づくのを静かに待っていれば、ひょこっと入り口の扉から出された顔は、やはり彼ではなかった。

「ども」

 彩度の高い金色の髪がふわりと揺れ、柔和な笑みが空間を包む。

 久住泰助という突然の訪問者に少し硬直してから、すぐに用を察して口を開いた。

「ああ……あの、高堂くんならもうすぐ……」
「知ってる、今下の階にいるよね」
「え? うん……」

 ならばどうして。そう付け足す前に、まだ後片付けをしていない彼の作品にじっと見入った久住が、次の瞬間真っ直ぐにこちらを射抜く。

「アイツ……今すごく楽しそうだ」
「? うん」
「頼むね、高堂のこと」

 真剣に、真面目に。無表情で告げられる言葉の意味を追及することも許されず、自分の口元から沈黙が漂う。

「今からアイツとどこかに出るの? 俺たちも、こっそり分かんないように着いて行っていい? 大丈夫、絶対にバレないようにするし、邪魔しないから」

 それは、迂闊に言葉を返せないほどの迫力だった。

「お願い」

 柔和な笑みなのに否定を許さない空気に流されるがまま頷けば、また完全に緩やかな放課後が息を吹き返す。

「ありがとう佐鳥さん、助かるよ。それじゃあひとまずはこれで」

 言いながら静かに、足音もあまり立てないまま出ていった久住を見送り、呆然とする。まさか自分の名前を知られていたとは予想外だ。けれどそんな驚きよりも、ただ静かに分かることがあった。

「……よう、待たせた」
「ああ……高堂くん。いや、大丈夫。私もまだ片付けもしてなかったから、むしろごめん。今片すね」

 きっとなにかがあるのだ。高堂くんや、あの取り巻きの間には。ただの友情や腐れ縁とは違う、また別の繊細ななにかが。

「なあ佐鳥」
「ん?」

 そしてそれに、私が踏み込むべきではないことも分かる。

「お前……いいやつだな」
「どうして?」
「俺みたいな同期のこと、本当はよく思ってねえんだろ。なのに、そんな素振りは一切見せねえし親切だ。お前は、いいやつだと思う」

 彼は外見と違い、とても気遣いのできる人だ。

「高堂くんだからだよ。あなたこそ本当にいい人だって、私は思う。君が優しいから、こっちも同じように優しくできる。それだけだの話なんだよ、きっと」

 徹底して中身で判断してくれる構えはとても落ち着くし、言葉こそ少し乱暴だけれど、彼は基本的にとても冷静で客観的に会話をしてくれる。
 同年代によくある、気まぐれで理不尽なからかい目的などではなく。本当に大人びている。

「そうか……」

 まるでなにか達観しているように。

「そうだな……」

 本当はなにもかもを、諦めているように。

「んじゃ、さっさと片付けて……お前の家に行こうぜ」

 緩やかに急かされるがまま、さして時間の掛からない後片付けを済ませて、共に出る。
 学校を出るまでは隣あって歩いたことはあっても、こうして外に出てまで帰路を歩いたことはない。

「駅の方面だったな。俺の使ってる道で駅に向かってもいいか?」
「えっ? うん、いいけど」

 提案を了承したとたん、大通りから人の気配がない細い路地へと足を向けた彼に続き、自分も歩く。
 道幅が狭く、静かだからこそコツコツと響く靴音。それを聞き、無意識に前方を進む男の足元へと視線を落として、少し首をひねる。
 彼は、先ほどまでこんな靴を履いていただろうか。
 そう思いはしても口に出すことはできず、ひたすらに道を進み日陰を歩く。
 それにしても不可解な道だ。こんなに変なところを歩くくらいなら、大通りを突っ切った方が早いのに。

「変な場所通っちまって、悪いな」

 まるで自分の思考を読まれたかのようなタイミングで発されたその声に、はっと意識が現実に引き戻されていく。

「ああ、うん。いいよ」

 帰宅ラッシュにはまだ少し早い時間帯。ほどなくしてたどり着いた駅もそこまで混んではいない。けれど、閑散としている訳でもなかった。

「切符はいくらするんだ?」
「ああ、高堂くんのぶんも買ってくるよ。私も定期が切れて、切符買わなきゃいけないから」
「金は俺が出す。財布、使え」
「えっ、いいよ……」
「いいから、使え。あとついでに、俺が帰るぶんの切符も今ここで買っといてくれ。小銭を突っ込んでる中に入れてくれりゃあいい」

 いくら断っても財布ごとつき出され、仕方なく受け取り彼の往復ぶんの切符も買ったけれど、自分のものは自分の懐から見えないように出した。自分の家に帰るだけなのに、人からお金を出してもらうのは気が引けて仕方ない。

「はい、高堂くん」
「悪いな」

 来たときのように前を譲ろうとすれば逆に譲り返され、ここからは自分が先導役になることを理解する。
 学生とサラリーマンが混ざりあい、人の波さえでき始めた改札の向こう側。流されないよう足を進めていれば、不意に後ろから肩を掴まれ、体がよろける。

「……え?」

 この言い難い違和感を理解するのは、一瞬だった。

「たっ、高堂くん……!?」
「なんだ」

 いつの間にか隣に並んでいた彼は滑らかに私の肩を抱き、当たり前のような顔で言葉を返している。体温を直に感じる距離で、ぎゅっと肩に置かれた指先にも力が入っているのを感じ、美術室のときと同様、またしても動揺と混乱は引いた。

「……ううん、なんでも」

 そのような気もないのに、彼は私に顔を寄せ、平然と肩を抱く。違和感は募っている。少し前から、ずっと。
 確信のようなものはなく、ぼんやりとした疑問だけが塵のように積もり、真っ赤な夕日が沈んでいくのを流れゆく景色の一部として、窓から見送る。

「綺麗な夕日……」

 何気なく呟いた言葉に、彼は日が差し込む方とは全く逆の方向を見据え、無言を保つ。
 見た目にも不可解な組み合わせなだけに、派手で強面で、整った外見をしている彼に肩を抱かれたみすぼらしい自分を笑う同年代の声が聞こえたと同時に、地元の駅へとたどり着く。
 重なる足音やアナウンス。繁華街が駅周辺にあるだけに、ここの混雑はいつも尋常ではない。

「佐鳥……」
「大丈夫だよ、すぐ静かになる」

 唯一分かるのは、彼は騒がしい場所や人混みを怖がっているということ。苦手なのではなく、恐れている。

「大丈夫」

 肩を抱かれているというより、掴まれている強さ。食い込む爪に顔をしかめぬよう、無表情を保ち自分の手を優しく重ね、そっと外させた。

「……改札、出るから」

 そう説明すれば、静かに離されていく指先。自分の次にぎこちない動作で改札をくぐった彼の手を、また自分の方へと導いた。

「こっち」

 異性と話すのが得意な方ではない。だけれどなぜか、彼には不思議と緊張しない。それは目元があのサングラスで覆われているかもしれない。瞳と瞳を合わせ、会話したことがないからかもしれない。

「佐鳥、悪い……もう少しゆっくり歩いてくれ」

 ピリピリと神経を尖らせたような声が響いたと同時に、彼を通して誰かにぶつかる振動が伝わった。

「おい、ちゃんと前見て歩けよこの野郎」

 ぶつかった相手の柄の悪さと横柄な態度に、一瞬にして空気が悪くなっていくのを、肌で感じる。

「……ああ? テメェこそちゃんと回りを見て歩いたらどうだ」
「なんだとコラ、餓鬼……いい度胸じゃねえか。ちょっと面貸せよ」
「高堂くん……!」
「大丈夫だ佐鳥、すぐに済む」

 止める間もなく大通りから一本外れた裏路地に引き込まれていく彼を反射的に追い、けれどどうすることもできないもどかしさに胸が焦げるような感覚を覚えた。
 相手は恐らく少し年上で、しかも三人。いくら彼でも、傷つけられる様が目に見える。

「お前、ああいう女が趣味なのか? 見た目のわりに、センス悪いな」
「アイツのなにを知ってる? 見た目だけで人を判断してんじゃねえよ、ド屑が」

 不利な状況にも関わらず、全く怖じけた様子もない人が、頼もしいどころか恐ろしい。

「あれから喧嘩はしてなかったが……試してみるのもいい機会かもな。この道幅に静けさも完璧だ。慣れねえ場所じゃどうも神経が高ぶる。お前、ガス抜きしてくれよ」
「はあ? なに言ってんだお前」

 コツン、と踵で一度地面を蹴った音が辺りに響き、彼はゆったりと首を回す。

「三人か、まあ悪くねえ」

 その悪夢は、数秒だった。拳を振り上げた相手の動きを滑らかな動きで流し、顔を片手で掴んではすぐ横にある壁にそのまま頭を打ち付け、一人が沈む。
 次に近くにいた二人目の男の足元へと飛んだ蹴りが見事に向こうずねに命中し、バランスを崩す追い討ちを掛けたと同時に急所を踏みつけ、動きを封じた。
 あまりの衝撃的な光景に両手で口元を覆い、凍り付く。

「……さてと、あと一人か」

 威圧感なんて、そんな生易しいものではない。
 足がすくむような恐怖と予想外の光景に、どうやら混乱しているのは自分だけではないらしく、残った男も硬直し、呆然と立ちすくんだまま。
 もう結果は出ている。これ以上怪我人が増えるところなんて、見たくはない。
 声を放てば震えてしまいそうだから、両手で覆った口元はそのままに、ゆっくりと彼に向かい歩みを進める。

「おいおい……この状況を見て、まだ分からねえのか」

 そして手を伸ばせば触れられる距離まで詰めた、その刹那。胸ぐらを掴まれ、息が詰まるほど持ち上げられる。

「負け戦が好きなら、お望み通り……」

 足が宙に浮きそうになるのを、もがくように爪先を動かし拒絶している間にも、言葉を止めた彼の手から力が抜け、自由になった体が腰を抜かして地面に尻餅をつく。

「……佐鳥?」

 このとき、理屈や理論なんて飛ばした本能と直感が働き、嫌でも理解した。

「佐鳥か? 悪い。お前を傷つけるつもりはなかった」

 彼は、目が見えていないのだと。

「…………」

 未だ一言すらも発せられぬ向こう側で、残った男が我に返り走り去っていく足音が響く。
 微かに血の飛んだ右手をズボンで拭った彼は、本当に申し訳なさそうにこちらへ腕をさしのべた。

「……すまなかった。怖がらないでくれ」

 恐る恐るその手を取れば、力強く引き上げられて空気が渦を巻く。

「佐鳥……佐鳥、大丈夫だ。悪かった」

 すぐそこに倒れる二人の男の傍で、こんな状況を産み出した人に強く抱き締められる。自分に優しくする手と、器用で繊細な作業をこなす指先。そして凶悪な行いを平然とする手が同じだなんて、信じられない。
 日の当たらない場所でただ髪をとかれ、震えがおさまるまで背をあやされる。

「いい子だ……」

 見えていないのか、なんて。今この状況では聞くことができなかった。

「歩けるか? お前の家まで、あとどのくらいかかる」

 けれど自分から聞く前に、賢く冷静な人から自然と言葉は落ちてきた。

「……もう分かっちまっただろ? だから慣れねえ場所や人混みは苦手なんだ。これから先は細くて人通りが少ない道で頼む」

 どういう意味が込められているのかは自分でも分からないけれど、なぜかこのとき、涙が出た。

「靴音で障害物を聞き分けてるんだ。どこになにがあるか、音の反響で大まかに理解してる」

 具体的な言葉ではない。だけど、彼は全てを認めている。

「肩、抱いてもいいか?」

 遠慮がちに伸びてきた指をそのまま触れさせ、歩き出す。

「心配すんな……アイツらは大丈夫だ。手加減してある。すぐに立てるはずだ」

 その台詞には、やっぱりなんともいえない苦しさや虚しさが残った。
 一本入った地元の人間しか行き来しない道で、うって変わったように穏やかで癖のない低音が鼓膜を揺らす。

「もう数ヶ月前になるか。事故に遭って、視神経を傷つけた」

 言葉で返事をしない代わりに障害物をさりげなく避け、建物に挟まれた合間から赤く切り取られた空を見る。

「学校には無理言って通ってる。他の奴らに見えなくなったことは伏せて欲しいっていう意向も聞いてくれた。だからお前にも俺の世話を焼く形で、放課後の面倒を見てもらって悪いと思ってる」

 準備や後片付けはさせず、彼に刃物も使わせないなどのやけに多かった約束事の裏側に、様々な人間の配慮を感じた。

「俺も来年の三月で卒業だ。今さら他には行けねえって我が儘を通しちまってな。回りにとっては自分がかなり迷惑な存在だっていうことも、ちゃんと理解してるんだ」

 違うよ、なんて気軽に否定ができない。
 ただの気休めすら、迂闊に口に出すのをためらうような夕暮れどき。ただコツンコツンと響く靴音だけが静寂の合間を埋めていく。

「特にアイツらには、気を揉ませてる」

 自由に行き交う人の足。鮮やかな色。奇抜な形。
 薄紫のフィルターを被せたような空間や空気は、私が好きな風景。

「自分では現実を素直に受け入れてるつもりだ。むしろ自分よりアイツらのほうが、俺のことに敏感なんだから笑えてくる」

 取り巻きの間に漂っていた不可解なものの謎が、このフィルターを通して紐をほどくようにとけていく。

「見えてることを前提に通学してるせいで杖が使えねえ。俺が怪我をしないように、歩くときは四方を囲まれる。他にもあの過保護っぷりだ。ま、学校からそうするように頼まれたのかもしれねえがな」

 彼は強い人だ。

「そんな気遣いに助けられちゃあいるのも事実だ。だが、たまに自分が哀れになる。俺はここまで他人に守られなくちゃ生きていけない人間になったのか、ってな」

 けれど、脆い人だ。

「……高堂くん、着いたよ」
「そうか。っと……、さすがにお前の家で肩を抱いてる訳にはいかねえよな」

 言いながら滑らかに外された手を見て、さらに歩調を落とす。コツン、と靴音を鳴らして。導くように。

「ただいま」

 搬出がしやすいように、大きなシャッターがついた作業場という名の倉庫。
 ちょうど休憩をしていたのか、椅子に腰掛けていた父はこちらへ視線を向け、まずは悪戯に笑んだ。

「ああ、お帰り知代。おっと……驚いたな。友達と聞いていたけれど、まさかボーイフレンドを連れてくるなんて」
「だから、友達だよ」
「あはは、ごめんごめん。そう怒らないでくれよ。はじめまして、僕が知代の父です」
「ああ……どうも。高堂要です」

 父は気さくで、誰にでも人当たりがいい。自分や彼に不快な思いをさせるような大人ではない。

「君が初めて美術部に入ってくれた子だそうだね、彼女はずっと一人で寂しがっていたみたいだから、本当に嬉しいと言っていたよ。ありがとう」
「お父さん」
「なんだい、僕はなにか嘘をついているかな?」
「そういう話じゃなくて……」

 どうもからかい癖の方が先に出ている口を咎めようとすれば、前方から真面目な声が飛ぶ。

「いえ……佐鳥さんにはこちらがお世話になっています。作業の合間、丁寧に初心者である自分の指導もしてくれるので」
「君も美術に関心が?」
「まあ、趣味の範囲ですが」

 口の悪さを控えた丁寧な敬語は、見た目とのアンバランスさを生んでとても奇妙に思えてしまう。けれど、父は柔らかな笑みを崩さない。

「それはとてもいい趣味を選んだね。素晴らしいと思うよ。さて、こうして立ち話をしているのも楽しいけれど、せっかく右奥に作品があるんだから見てもらおうか」

 無意識だろうけれど流れるように背を押して共に並び歩む父の動作は、結果的に彼を補助していることに変わりなかった。

「これだよ、遠慮せずにどうぞ」

 丁寧に手まで作品に持っていく動きにほっと息をつき、無意識に相手の反応をうかがう。
 彼は表情の変化が乏しいぶん、雰囲気と声に感情の全てが現れた。

「……すげえ……」
「僕の作品の中ではそんなに大きくない方だが、一応高さが三メートル、横が二メートル五十はある。脚立を持ってきてあげよう、好きなように全て触ってごらん」

 当たり前のように連れてきたけれど、少し前の衝撃を忘れた訳ではない。ただ、今ここにいる彼があまりにいつも通りだから、忘れてしまいそうになるだけ。

「これ作るのに一体……」
「うん、この作品は大体二ヶ月くらいかな。今回はだいぶトントン拍子に進んだ方だよ。僕は厄介な男でね、いつもはたいがい搬出の直前まで業者さんにねだり倒してギリギリまで作業しているから」
「二ヶ月でこんなデカイもんに、これだけのクオリティーで彫れるんですか……!?」
「あはは、慣れだよ、慣れ。何十年もしていたら、大体要領が掴めてくるんだ。それに僕の場合は最近ようやく自分の技法が確立されてきたからね。表現したいものへ繋がる手順が分かっていれば案外早いものさ。それでも、より新しく美しく仕上げる工夫は忘れていないつもりなんだが」

 脚立を支える父に乗せられ、作品のより高い部分へと触れることが許された彼の指先が人物の頬を撫でる。そして顎、唇、鼻先、目元から額を手のひら全てを使いその形状をなぞり、風になびくその一瞬を切り取った髪へと流れていく。

「…………」

 繊細な作品へ、より細やかな配慮をまとい滑る武骨な手。無言のまま首筋へとおりたとき、なにげなく自然な口調で父が放った言葉に、浮わついていた意識を止めた。

「君はなにを感じる?」

 どうとでも返すことのできる言葉に、彼は至って落ち着いた声で作品の方を向いたまま切り返しを放つ。

「とても、綺麗だと感じます。風の強さや匂いも感じそうだ。けど……あんまりに美しすぎて、また触れるのは躊躇うくらいですが」
「そうか」

 けれど、次に彼がふっと口元を綻ばせながらこぼした言葉には、鼓動が跳ねた。

「モデルは佐鳥さんですか」

 父もこれには少し目を見開き、すぐに笑った。

「すごいな、正解だよ。別に説明するつもりはなかったんだが、どうして分かったんだい?」
「雰囲気ですかね。彼女は、こんな風に優しいイメージですから。あと細かいパーツも似てますよ。目とか」

 彼に顔を見られたことはないはずだ。けれど、触れられたことはある。ならば手に触れた感触だけで、ものを見ているというのだろうか。
 いや、彼ならばあり得る。視覚をなしに粘土であれだけ模刻を忠実に再現する能力に長けた人だ。頭の中は想像力が豊かで、また正しく構造を捉えられる才能もある。

「だって。よかったね知代、君は綺麗だってさ」

 照れ隠しと言わんばかりにこちらへ急に話題を投げてくるのは、父の悪い癖である。
 それに肩をすくめて無言のまま返せば、なめらかに会話は次へと乗っていく。

「はあ……本当にすげえ。感動とか、そういうのも通り越しそうな感覚ですよ。一生触ってられるような気がします」
「あはは、ありがとう。光栄だよ。今のうちに好きなだけ触ってしまえばいい。他の作品も奥に並んでいるから、気になるなら触っても構わないからね」
「ありがとうございます」

 制作者がいては彼が気を遣うと思ったのか、父は滑らかな動作でアトリエを出て行く。けれどその途中、思わぬことを口にした。

「君たちも知代のお友達かな? そんなところにいないで中へ入りなさい」
「!」

 反射的に振り返ると、遠い場所で久住泰助たちが硬直しているのが見える。道中で色々ありすぎて、彼らが自分たちにこっそりついてきていたことをすっかり忘れていた。これはまずい展開だ。
 案の定、隣にいる高堂くんの不機嫌さは一気に増した。

「……ああ?」
「あ、お父さん、あの人たちは別に友達じゃ……」
「えっ? だって君の通う学校の制服を着てるじゃないか。ああ、じゃあ高堂くんのお友達かな。僕にはどっちも同じことだ。外にいさせるなんて可哀想だよ」

 父の優しさと大人の対応が、ここまで気まずい空気を生む日がくるとは思わなかった。
 半ば強引にアトリエへ押し込まれた三人は、本当にばつが悪そうな顔で各々別の方向を見ている。
 緩衝剤となっていた父が笑顔で去ってはや数分。痛すぎる沈黙の中、腕を組んで仁王立ちした高堂くんが気怠げに口を開く。

「テメエら」
「すまん!」

 彼の言葉を遮る勢いでまず頭を下げたのは、鈴江与四郎。けれど自分の隣に立つ男は厳しい口調を崩さなかった。

「与四郎に謝らせりゃあ俺がなんでも許すと思ったら大間違いだぞ。泰助、遊作」
「違う。俺が止めなかったからだ」
「与四郎、頭を上げろ。おまえだけの問題じゃねえ」

 とても自分がいてもいい状況とは思えないが、かといってこの場を立ち去るのはあまりにも今さらだ。
 居心地悪く立ち尽くしている間にも、彼らの会話は続いた。

「必要以上に付き纏うのはやめろ。鬱陶しい。俺はそんなに哀れか。おまえらに尾行されなくちゃねらねえほど、頼りない障がい者か」
「高堂」
「おまえらがやってる行動は、俺にそう思わせる。だからやめろ」

 反論しようとした久住泰助を抑え込む言葉に、最後は静寂が続く。
 日は沈み、辺りは藍色に包まれていた。
 しばらくして、無表情のまま沈黙を保っていた金髪の久住泰助が口を開いたとき、改めて悟る。


「……ごめん。別に、おまえがなにもできないと思ってるとか、そういうんじゃないんだよ」

 彼らの関係はどこか変だ。普通の友人同士というには違和感がある。
 
「障害があろうとなかろうと、高堂は高堂だ。前となにも変わらない。これは俺たちの自己満足だ」

 四人は同じ年で常に行動を共にしているのに、上下関係が存在しているのだ。
 高堂くんは三人を下の名前で呼んでいるのに、彼らは高堂くんのことを名字で呼び、とても繊細な配慮をする。
 三人が彼を敬い、崇拝している気配さえ感じた。

「尊厳を傷つけたなら本当に悪かった。それは俺たちの本意じゃない」
「おまえの言い分は分かった。遊作」

 彼もこんな風に扱われることに慣れているのだろう。堂々とした素振りを崩さずにもうひとりの男に声をかける。
 無表情を崩さない友岡遊作は、そのままアトリエの床を見つめて言葉を囁く。けれどそこに感情は籠もっていなかった。

「……悪い」
「気持ちが入ってねえな。不満か」

 すぐさま相手の雰囲気を掴んだ彼が鋭く切り込む。黒い髪とピアスを揺らした男は、彼にも負けない強い声音で不満げに言葉を返した。

「だっておまえ、今日喧嘩しただろ。入りはしなかったけど、ああいう無茶は止めろよ。怪我したらどうすんだ」
「俺の怪我がおまえに関係あるのか?」
「んだと?」
「遊作、落ちつけ」

 明らかに怒りの色を見せた友岡遊作の元へ割って入った鈴江与四郎が仲裁役に徹する。けれど高堂くんは、彼の気を逆撫ですることばかり口にした。

「人の行動にいちいち干渉して、おまえは何様のつもりだ? 鬱陶しい」
「なんだとこの野郎……っ! 俺はおまえのことを思って……っ!」
「俺のためだと? 笑わせてくれるぜ」

 本格的に暴れ始めた友岡遊作に、久住泰助も一緒に抑える役に回る。このままでは父の作品まで壊されるのではないかという心配が頭をよぎったとき、仲裁に入っていたふたりが自ら友岡遊作を引きずってアトリエを後にしていく。こんなことは一度や二度ではない。そう思わせるほど慣れた対応だった。

「離せ! アイツを一発殴らねえと気が済まねえ!」
「はいはい分かったって」
「落ちつけ遊作」

 離れていく三人を呆然と見送っていると、鈴江与四郎がこっちを振り返って再度一礼してきた。そのとき視線が合って慌ててこちらも頭を下げる。
 アトリエの中にしばらく沈黙が続いたあと、隣の高堂くんがようやく緊張した雰囲気を解いて苦笑した。

「……ったく、悪いな」

 カツンと床を蹴って踵を返した彼は、改めて父の作った他の作品に触れ始める。
 やはりその手つきは繊細で、外見とは反比例していた。
 作品を味わうのと同時進行で、彼は先ほど去っていった友人のことについて口を開く。

「話を聞いてて、変な関係だと思ったろ。アイツらとは色々あってよ。俺たちは、普通の友達とは違うんだ」

 自分が感じ取っていた違和感について触れた彼は、淡々と言葉を続ける。

「俺も前からこの状態には危機感っつーか、違和感があってな。いつか変えないといけねえって思ってはいたんだが……結局ズルズルと今日まで手を打たずにきた」

 自分には分からない事情が、彼らの中にあるのが窺える。それは安易に聞き出せるものではなく、彼らの中だけで解決していくしかない事柄であるのも分かった。
 だからなにも口にせず、ただ彼の隣について一緒に作品を鑑賞する。

「いい加減、変わらねえとなあ。アイツらも、俺も」

 低い声で響いた独り言が消えていく。相鎚すら打たずに、自分も父の作品に指先だけで触れた。
 彼はそれから意識を切り替えたのか、軽い雑談をしながら手のひらでの作品鑑賞を続けていく。真剣な表情で制作方法や技法を疑問してくる横顔は、時間の概念を忘れているように見えた。
 自分も答えられる範囲で細かい技法を伝えていると、上の階から母の声が響く。

「知代、夕飯だよー! お友達も、よかったら一緒に食べて行きなさいねー!」

 気づけば夕方も深まった時間帯だ。慌てて高堂くんのほうを見ると、同じように「もうそんな時間か……」と囁いている。

「あ、こ、こんな時間まで大丈夫だった!?」

 もてなす側の自分がすっかり彼を帰す機会を失わせていたとは恥ずかしい。上擦った声を少し笑われて、余計にいたたまれなくなった。

「ああ。もう中学生じゃないしな、門限はねえよ。そううるさい家でもないから、あんま心配すんな」
「だ、だったらよかった……」
「一応親に連絡だけ入れて、せっかくだしおまえのところで夕飯も食わせてもらってから帰る。親父さんにも色々聞きたいしな」

 恐らく彼の目的は、言葉の最後に出てきた父に話を聞くことだ。私では答えられなかったことを、もう一度制作者でプロの作家でもある父に聞きたいのだろう。
 野心や向上心ではなく、純粋に疑問だと思って聞いてくる彼の質問は、思わず細かく親切に説明したくなる。もしかすると私のほうが聞いていて勉強になるかもしれない。
 なんやかんやと言っていても、結局は小手先だけでも技術を上げたいと思っている自分の浅ましさに苦笑してから、ゆっくりと自然に彼の腕を引いた。

「じゃ、行こうか。リビングは二階なんだ。ここから階段が十五段あるから、気をつけて」
「悪い、助かる」

 アトリエの電気をパチンと切って、彼の前を歩いて進む。初めての場所で神経を使っているのだろう。彼からは緊張感が伝わってきた。
 それに我が家はふたりのアーティストが住む家だ。普通とは違う家の構造をしている。取材にくる記者も驚くくらいだ。自分は慣れているからいいが、彼は特に気を揉むだろう。
 だから階段を過ぎてからは、なるべく腕を引いてゆっくり進むことに徹した。

「変わってんな、この家。迷路みてえ……」
「はは、でしょ。ふたりが使い勝手のいいように作ってあるから、だいぶ変な間取りだと思う」

 廊下を右に左に曲がった先にあるリビングへ辿りつくと、母に驚いた顔をされた。

「あらま。お友達って男の子だったの。お母さんてっきり……」
「……先に言っとくけど、ただの友達だからね」

 ぽっと頬をいたずらに染めた母を見て引き攣り顔で答えたとき、すでに食卓へついていた父が隣の椅子を引いて声をかけた。

「さあ高堂くん、こっちにどうぞ」

 大きく響いた音に反応した彼を導くように、自分も同じように料理の並べられた食卓に近づいて行く。高堂くんの指先がテーブルの端に触れると、物の配置を素早く理解した彼が滑らかに席へついた。
 自分のことだけでもかなり気を使っているだろうに、彼は周囲への配慮も忘れなかった。

「お母さん、はじめまして。ただの友達の高堂要です。佐鳥さんには、いつもお世話になっています」

 さっき自分が紹介した言葉を冗談の一部として引用してくるあたり、さすがだと思う。それに頭を掻いたあと、彼と出会った経緯などを説明することに徹した。

「高堂くん、美術部員なの。一緒に彫刻してるんだ。それでお父さんの作品にも興味があるって言ってくれたから、ここまで来てもらったの」
「へえ〜、彫刻かあ。でもせっかくだし、よかったらアタシのアトリエも見ていく? 日本画とか興味ない?」
「お母さん」
「はいはい、これ以上の勧誘はしません」

 調子のいい母に笑う父は和やかな表情を保ったまま、彼に食事を促した。

「ははは、まあ母さんのアトリエはあとで見るとして、先に夕飯を食べてしまおうか。さ、高堂くん。遠慮せずにどうぞ」

 さりげなく料理の説明をしながら、テーブルの配置がどうなっているのかを自然に教えている父の姿には、少し違和感を覚えた。
 けれど彼は父からの情報に頼るしかないのだ。いまここで変なことを口走ってはいけない。
 幸いにも他におかずの数も少ない丼ものだったおかげで、高堂くんはあまり苦労しているように見えないのが幸いだ。

「すげえ美味いです」
「ありがとう〜、嬉しいわあ」

 彼女の現金なところは面食いなところだ。瞳は露出していないにしろ、見るからに容姿のいい高堂くんの姿を見てからというもの、明らかに上機嫌である。
 子どもやアイドルも範疇なのだから、高校生の彼も愛でる対象に入っているのは不自然ではない。だがやはりちょっとは控えてほしいというのが本音だった。
 どちらかと言えば男前の部類に入る父も、彼女の露骨な態度には苦笑いしていた。
 人間は一般的に美しいものを好む傾向があるが、芸術家はその傾向が更に顕著だ。美しいものには目がない。それぞれ美しいと感じるモチーフには違いがあるものの、長年『人間』を描写している母は、男女問わず美しい人間には目がなかった。

「はあ〜、なんだか見てるだけでとっても創作意欲の湧いてくる子ねえ〜」
「お母さん」
「だって〜。仕方ないじゃない、画家なんだもん」
「制作の話は食事中にしないって、昨日お母さんから言い出したんじゃないの」

 明らかに普通ではない家族の会話に、彼もとうとう箸を片手に吹き出してしまった。

「っぷはは……。あ、すんません……つい。面白くて。いや、悪い意味じゃなくて」

 控えめで、それでいて男らしい笑いかたはすごく彼らしい仕草だった。
 家族の会話内容を笑われたのが恥ずかしいと思っているのは自分だけのようで、父と母は慣れたものだ。同じように笑い飛ばして彼との会話を進めていった。
 そこからは高堂くんの望んでいたとおり、父の作品や技法についての詳細を話したり、美術についての内容がほとんどを占めている。
 自分にとって勉強になることもあれば、基礎的な話で右から左に抜けていく内容もあった。でもひとつ言えるのは、これほどにまで居心地のいい食卓は、数年ぶりだということだろう。
 卑屈になる訳でもなく、純粋に笑って会話に入り、楽しめる。それは高堂くんがいるからこそ保てている空気だった。

 一通り話も落ちつき、時刻は夜の八時。そろそろいい時間だ。
 あまり遅くなっても相手の親御さんに心配をかけるだろうからと、帰宅を促す言葉が思わず自分の口から発される。

「高堂くん、大丈夫? もう遅いけど」
「ああ。じゃあそろそろ帰るか」
「その前に、母さんのアトリエだけ見ていったらどうだい」

 笑顔で会話に入ってきた父の提案に、母は大きく反応を示した。

「ええ、ぜひ見てって! まだ途中だけど!」
「は、はあ……ありがとうございます」

 意気揚々と彼の腕を引っぱっていく彼女の強引な動作に、心配が募って後を追う。
 不安はそれだけではなかった。日本画は平面作品だ。立体物と違って物体や造形の認識ができない。視覚で楽しむしかない作品を前にすれば、彼はただ佇んでお世辞を言うことしかできないだろう。
 父を振り返っても、ただにっこりと微笑むだけだ。
 しかしリビングからほど近い母のアトリエについたとき、自分の気苦労などがすべて吹き飛んだ。
 彼より先に、驚いた自分が言葉を発してしまう。

「え……お母さん」

 大きな画面に、極限まで計算され尽くした美しい色彩で人物を描いていた彼女の作風から、それは大きく異なっていた。
 まずは作品の大きさだ。かなり小さくなっている。雑誌ほどの手頃な大きさのパネルだ。さらに画面は白しか使われていない。
 固まる自分をよそに、母は高堂くんにとんでもない言葉を放った。

「よかったら触ってみて」
「えっ、いいんすか……」
「ええ。知代も触る?」

 絵の具はもちろん、画面にその絵の具を定着させる接着剤まで、すべてが自然物からできている日本画は劣化が早く、作者以外に触れることなど本来は厳禁だ。しかし彼女の対応は軽く、ウインクまでしている。

「あ、うん……でも、作品が痛まない?」
「大丈夫よ。今回は特別に、触ってもいい作品にしてあるの」

 それを聞いて安心したのか一礼した彼を横目に、自分もおずおずと導かれるように作品へ近づいていった。
 いつもは床に作品を敷き、乗り板に乗って描いているのに、この大きさであれば机の上で作業が済むらしい。触りやすい場所へ立てかけられたそれへ、先に彼の指先を触れさせた。

「うわ……」

 近くに来て分かったが、これはただの平面作品ではない。平面に盛り上げを作り、凹凸をつけて描いている。半立体だ。
 白一色しか使われていないのに、目の前には確かに美しい女性が浮かび上がっていた。
 それにしても凄まじい描写力だ。形に狂いはなく、不自然な部分も見当たらない。ないはずの色をこちらが想像してしまうほど、白の中に幅広い色彩も感じた。

「すげえ……」
「『君は作品の大きさと色彩で誤摩化してる』、なんてどっかの偉そうなジジイに言われたもんだから頭にきてね。ふたつとも省いたらここに行き着いたの。白以外は使わないって決めたから、陰影は盛り上げ胡粉で表現して、胡粉も色んな種類を、色んな濃さで試したのよ」
「ごふん……?」
「ああ、貝殻を砕いた絵の具のこと。日本画は宝石や貝殻を砕いた粒子で描くのよ」
「へえ……」

 慣れたように話す母は、柔らかな声で言葉を続けた。

「遠くから見るとただの真っ白な画面で素っ気ないのに、近づいて触れてみると、その美しさが浮かび上がる。まるで人間関係みたいだと思わない?」

 彼女は大雑把で大胆に見えるが、人一倍他人の機微に敏感だ。

「最初は反骨精神だけで描き始めたのに、いつの間にか色んなことを考えながら描いてた。色も迫力も失った画面で、どんな人でも美しいと感じられる世界を描きたい。これが今では大きなテーマね」

 自分が到底、表現できなさそうな難しい課題を自らに課して生きていく両親の姿は羨ましくもあり、怖くもあった。
 プライベートと仕事の境界線がないのが芸術家のいいところであり、同時に呪縛だとも思う。
 この世界にいると、狂気的な作品とよく出会う。傑作と言われる作品のほとんどがどれも美しく、同時に不気味にも映る。そもそも『美しい』という状態そのものが、普通ではない光景の一種だ。その美に取り憑かれた人間たちが集まって『己の美』を追及している世界なのだから、狂気に満ちていても不思議ではない。
 だから自分の父や母も、普通ではないのだ。

「『普遍的な美』って、一体なんなのかしら」

 醜いものも汚いものも、時にはグロテスクなものですら、美に昇華してしまう化け物が住む芸術の世界。私はそんな場所で長く息をしようと思えない。
 写実を極めた完璧な作品を突きつけられるたび、息苦しくなって目を背けてしまう。すごいとは思うのに、長時間その作品と向き合う気にはとてもなれない。両親の作品がまさにそれだ。
 また卑屈な自分が頭をもたげ始めている隣で、彼はただ純粋に作品を鑑賞している。
 数分経ったあと、部屋の入り口に佇んでいた父が言葉を発した。

「よーし、もう遅いし、帰ろうか」




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