PAGE
[十円玉の男]
篠原由美












 バイトの帰り道、角を曲がると、自販機の前に男子学生が立っていた。その人物には見覚えがあり、少し首を傾げる。

「あれ、あの人……」

 十円玉を拾ってくれた男。そう口に出しかけて、すぐに噤んだ。
 夏期講習が終わってからというもの、すっかり見なくなっていた人物だ。彼もここが帰り道なのだろうか。
 名前も知らない男の子は、とても端整な顔立ちをしていた。黒い短髪がよく似合っている。眉はつり上がり気味で、目も切れ長。輪郭もシャープで小顔だ。モデルをしていてもおかしくない。体格は、サッカー部なんかに所属していそうな、しなやかなのに男らしい印象があった。きっと学校では女の子によくモテるだろう。少ししか話していないけれど、言動もしっかりとしていて、常に自信に溢れている人に見えた。

 それにしても、じっと自販機を見つめている。数秒後、おもむろに財布を取り出したかと思えば、彼は一枚の硬貨だけを取り出して、あろうことかそれを地面に落とした。
 反射的に彼のほうに真っ直ぐ近づき、なんの迷いもなく地面に膝をつく。ジーンズとシャツというラフな格好ということもあって、遠慮なく腕を自販機の隙間に突っ込んだ。

「! おい、おまえ……」

 奥に入り込んだものを必死に指先でたぐり寄せたあと、取り出して埃を払う。地面に膝をついたまま、相手にそれを差し出した。

「はい、落としましたよ」

 深く考えず、咄嗟に起こしてしまった行動に、前方の相手は明らかに怪訝な顔をした。それだけではない。次の瞬間には咎められて腕を引っぱり上げられてしまう。

「なにしてんだ、みっともねえ……! 立て!」

 みっともない。その言葉は、少し胸に突き刺さった。
 なにがみっともないのか、自分には理解できなかったからだ。
 言葉を失っていると、こちらの心情を察したのか、彼は急に顔色を変えて言葉を選んだ。

「ああ、いや、悪い。……ありがとよ、拾ってくれて」

 このとき、はっきりと悟った。彼は、自分とは違う価値観の世界で生きているのだと。
 自分の周りにいる友人は、みんな落としたお金は必ず拾う。確かに、それがスーツを着たサラリーマンやいい歳をした大人であれば、時には惨めに映るのかもしれない。でも、たった百円や十円でも、生活に響いてくるほどの稼ぎしかない学生の自分にとっては、落とした硬貨を拾うのは当たり前のことで、惨めな行為では断じてなかった。

 そうだ。最初からその片鱗は彼の言動の端々に現れていた。硬貨を拾ってもらったときに気づくべきだったのだ。
 この人はきっと、こんなことをしなくてもいい世界で生きてきたのだろう。見てみれば制服も本物の私立校を思わせるきちんとしたもので、いかにも裕福そうだ。
 もっと自分の観察力を働かせて勘づいていれば、本当にこんなにも惨めな思いをすることはなかったのに。
 情けなさと羞恥で真っ赤に染まった顔で、なんとか口角を上げて笑う。すると、彼はますます躍起になった。

「あ、いえ。ご、ごめんなさい。『たかが十円玉』なんて、いらなかったですよね……ははっ」
「いや、違う。本当に助かった。ありがとう」

 心から感謝の気持ちを込められていない言葉など、悲しくなるだけだった。哀れんで見られているような気分になる。
 とにかく、彼とこの現場から一秒でも早く離れたい一心で口を開いた。

「じゃ、じゃあアタシ、帰ります!」
「おい」
「あなたもお気をつけて!」

 恥ずかしいと思う以上に、苦しい。さして世間体なんて気にせず生きてきたのに、彼に現実を突きつけられた気がした。
 自分がいかに惨めな人間なのかと。
 止めてきた手を強引に振り払って、自販機の前を通りすぎる。これから学校だというのに、集中できる気がしなかった。



 それから毎日、あの自販機の前で十円玉の男に遭遇した。自分を待っていることは明白で、気まずさから会釈と短い会話だけで済ませていたものの、さすがに我慢の限界だ。
 雨が降りしきる中、黒い傘を広げている彼の背中を、自販機の光が包み込む。雨が弾ける透明のビニール越しに、その光景が歪んで見えた。

「……あの」

 相手に話しかけられる前に自分から話しかけてみる。ゆっくりと視線を向けてきた男の瞳からは、なんの感情も感じ取ることができなかった。
 彼を見ていると、心が苦しくなる。普段は抑えている虚しい感情が湧き上がりそうになるからだ。自分の境遇を嘆くのは好きではない。他人と比べて『自分は可哀想だ』と思うことが最大の悲劇で、心を乏しくする原因だと考えているから。
 自分は自分なりに生きていけばいい。努力で手に入るものならば、欲しい環境は自らの力で手に入れようともがいている。

 中学を卒業して、働くことしかできなかった環境も不幸ではない。家にお金を入れて、母親を助けることができているのはいいことだ。幸せすら感じる。働くのも嫌いではない。色々あるが勉強になる。
 彼からは、自分と同じような雰囲気を感じなかった。それどころか、他の人間にはない『余裕』を感じる。それなのに、幸せではない顔をしているように見えた。
 なぜそんな目をするのだろう。あなたは自分よりもきっと、なにもかもが恵まれている筈なのに。
「すまない」と頭を下げられては、許すしかない。でも何回このやり取りを繰り返せば気が済むのか。もしかして、これは新手の嫌がらせなのかもしれない。貧乏な自分は、裕福な男の子にからかわれているだけなのかもしれない。その思いを拭いきれなかったからこそ、今日で終わりにしようと思ったのだ。

「あの、もういいですよ。気にしないでください。こうやって待たれると、私も怖いです。なにか他に、ご用でもあるんですか?」

 へらっと笑っても、男はピクリとも表情を変えない。無表情のまま、じっとこちらを見つめ返してくる。次第に気まずくなって口角が下がり始めた瞬間、男はいつものように頭を下げて謝った。

「本当に悪かった。貶した訳じゃない。俺の言動は最低だった」
「だから、もういいですよ……ね?」

 離れれば疑心暗鬼になるけれど、こうして目の前で謝罪する彼の姿からは悪意を感じられない。そうなれば、もう眉を下げて笑うしかできなかった。彼を許す他に、自分はなにをすればいいというのか。傘を握っていないほうの手で彼の肩を叩くと、残暑の厳しい季節だというのに制服はひどく冷たかった。湿っていて、一体いつからいたのかと思うほどに。
 ようやく顔を上げた彼は、真剣な面持ちを崩さないまま、不思議なことを呟いた。

「……俺はよ、十円の価値も分からねえ馬鹿な男なんだ。ごめんな」

 そんなことを、深刻な顔で言う意味があるのだろうか。その後も言葉は続いて、首を傾げたくなる気持ちは増すばかり。

「けど、この十円玉で初めて気づいた。自分がいかに愚かで、世間知らずで、どうしようもねえ餓鬼だったのか。おまえが気づかせてくれたんだ」

 不意に、肩に置いていた手を掴まれてドキリとした。互いの指が触れた場所にではなく、彼の真っ直ぐな眼差しに。

「本当にありがとう」

 心のこもった感謝の言葉は、今度は素直に胸へ染みた。









 それから十円玉の男は、自販機の前に姿を現さなくなった。代わりに、自分が休日に勉強場所として利用する都内の図書館で頻繁に出会うようになる。
 静かな空間でなにを話すでもなく、お互いに淡々と勉強を進める。男の解いている問題集は難解なものばかりだ。
 いままで彼の名前も知らなかったけれど、近くに広げてある模擬試験の用紙を何度か盗み見ている内に嫌でも覚えた。鷲沢雅人。右上に書かれた字は綺麗で神経質な気質さえ滲んでいる。昔から『文字には人の性格が現れる』というが、彼の場合にもそれは
当てはまるのだろうか。
 教科書に視線を落としながらどうでもいいことを考えている辺り、集中力が切れかけているようだ。ため息をついて荷物を纏めたあと、鞄を担ぐ。席を立ったとき、彼からの視線を感じたがそのまま出口に足を進めた。

「おい、基礎をやってる場合か。一次なんか適当に切り上げて応用を解け。試験に間に合わねえぞ」

 図書館を出た瞬間、背後から声をかけられて振り返る。彼の言葉には眉を下げて頭を掻いたあと、へにゃりと笑って返答を誤摩化した。

「あはは……どうも」

 館内では言葉を交わすことはなくとも、外でこうして話しかけられ、5分10分の会話をすることは珍しくない。

「おまえ、俺と同じ大学受けるんだろ?」
「まあ、そのつもりですけど……」
「だったらもう少しペースを上げろよ。再来月には模試もある。冬期講習もちゃんと申し込んどけよ? 追い込みは他人に囲まれてするほうが危機感を覚えて必死になれるぜ」

 初対面という訳でもないが、お互いに名前を呼んだこともない。いわば顔見知り程度の間柄でも、彼は平気で自分にため口を使う。かといってそこに見下しているようなニュアンスは感じない。本当に平等な立場でものを言っているのだと伝わってくる。だから嫌いではなかった。
 しかし、その台詞にはただ苦笑するしかない。なにをどこまで説明しようか迷ったが、とりあえず事情は深く話さず、結論だけを簡潔に述べた。

「ありがとうございます。でも、私にはもう、あんまり意味がないので」
「はあ?」
「受験できなくなりました。家の事情で、大学受験は諦めます」

 家の事情。その言葉を聞いただけで、男はすぐに顔色を変えて声を潜めた。

「……そうか」
「でも、大検は取って高校もちゃんと卒業しますよ。最低限そこだけは、ね」

 安易な慰めや深入りをしない距離感は好きだ。友人のように親しくはない仲が、逆に気楽さを生むことも知っている。だから自分たちはこの関係が、一番適切なのだと思う。
 にっこりと相手に向かって微笑み、物理的に距離を取る。

「でも来年は受けられないだけで、再来年にはチャレンジできるかもしれませんから! 先に待っていてください。それじゃ!」

 どうせ他人のままなら、綺麗な印象だけを残して消えてしまいたい。奥底に潜む醜い人間臭さや弱い部分など悟らせないまま、自分は十円玉を必死に拾っていた女として彼の思い出となり、いつかは頭から消去されていく。できれば誰の記憶にも残りたくはなかった。

 図書館から赤い自転車に乗って、自宅に戻る。古いマンションの一室に入ると、母親が夕飯の支度をしていた。

「あら、おかえり由美。今日は早かったのね」
「うん。まあね」

 靴を脱いで床を踏むと、ギイと古い板が軋む。軽い足取りで台所まで進み、鞄を置いて背後から母親に抱きついた。

「ねえお母さん」
「なによ」
「私、やっぱり大学受験やめる。なんか面倒だし。どうせ受からないし。予備校も高いじゃん。するだけお金の無駄かなって。大検取ったら一応は高卒扱いだからさ。仕事のほうでキャリア積んでいくよ」

 火にかけられていたのはお味噌汁で、その横には野菜炒めの入ったフライパン。胃袋を刺激する匂いに深呼吸していると、腕の中から優しい声が返ってきた。

「そう。あなたは本当にそれでいいの?」

 真綿で首を締め付けるような息苦しさが襲う。単純な問いだからこそ、直接胸に響いたのかもしれない。母はこちらに背中を向けたまま、おたまで鍋をかき混ぜて言葉を続けた。

「家のことはなんとかするわよ。お母さんの借金をあなたが払う必要はないんだから、気にしないで勉強を続けなさい。学費もちゃーんと出せる。やりたいことがあるんでしょ? お母さんは由美が大学に通って、一生懸命勉強している姿を見るのが、一番楽しみなの」

 お金の工面など、どうしたってできる筈がない。夏期講習の費用も、無理をして折半させてしまったというのに。この前自宅に届いていた紙を見て、いくらの借金を背負っているのか見てしまった。額面には子どもながらに気が遠のき、大学などと言っている自分が馬鹿らしくなったのだ。

 すぐに利益を生まない夢など見ている場合ではない。いま、自分の家庭に必要なのは「曖昧な明るい未来」よりも「金」である。働いて物理的な金を手にする必要がある。それが我が家の暮らしにとっての『幸せ』に繋がるのは明白だった。
 ろくでもない父親が残した負の遺産を、真面目な母が背負い続けているのだ。ひとりで働かせている訳にはいかない。
 その気持ちをすべて見抜いていたかのような母の台詞にドキリとしたあと、隠していた子どもの甘えが急に湧き上がり始めて奥歯を噛んだ。

「だってお母さん……これ以上無理したら、死んじゃうよ……」

 背後から抱きしめる力を強くする。彼女の身体は本当に細くて、か弱かった。親は自分よりも先には絶対に死なないと昔は思っていたのに、働き始めてからそんな幻想は吹き飛んだ。母はいまにも、抱きしめた腕の中から消えてしまいそうだ。

「あははっ、死なないわよ。失礼ね。あなたを残してなんて、心配で天国にも行けないわ」

 夕方、できれば誰の記憶にも残りたくはないと思ったが、嘘だ。母の記憶にだけは残りたい。無条件で心から自分を愛してくれるこの人を守り、長く一緒に生きていきたいと思う。

「お願い……私をひとりにしないで……」
「しません。ほら、だからもう泣き止んでご飯を食べなさい」

 彼女さえいれば、他になにもいらない。細やかな幸せは、母とだけ分かち合えばいい。

「もう、泣き顔が似合わない子ね。さあ笑った笑った。明日からも勉強を頑張るのよ。いいわね?」

 ひだまりのように優しく、大きく愛情の深い人。
 彼女のためにも大学に行って優秀な成績を取り、社会で活躍できる大人として恩返しするのだ。そう心に決めて、涙を拭い食卓の席についた。

 笑顔で談笑し、将来の目標を語れる唯一の相手だった母が事故でこの世を去ったのは、それから一ヵ月後の日曜日。

 葬儀後は喪失感に苛まれ、大学受験の勉強は一切しなくなり、夜間高校にもあまり行かなくなった。辛うじて卒業資格と大検だけを手に入れはしたものの、守るべきものや支えがなくなったいま、空っぽの両手になにを持っても無意味だった。


[←前|次→]
[←戻る]