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鷲沢雅人











 そつなく計画通りに臨んだ受験は、両親が思い描いていた結末を迎えた。最も高い得点を出して入学を果たし、自分は順調な大学生活を送り始めている。
 サークルはアメフト部に入って人間関係もそれなりに構築しながらも、深入りはせず自分の時間も作っていた。
 構内の駐輪場で自分のバイクを止めてある場所に向かい、ヘルメットを被る。顔を覆うフルフェイスでどこにでもある大型バイクを選んだというのに、自分の姿はすぐ他人にバレてしまうようだ。聞こえてきた言葉には正直、驚きが隠せない。

「キャーッ、雅人くんだあ! もう今日の講義終わったの? こんど私も後ろに乗せてね!」
「おう」

 女の言葉へ適当に片手を挙げて返事をしながら、ため息をつく。意識していないが、どうやら自分は学内でそこそこ目立つ部類に入るようだ。家柄も頭の回転もいい人間ばかりが揃う大学で、これだけ多くの人間が在籍し、クラスという固定された枠組みがないところでは自分の存在など無に変わると思ったが、思い違いだったようだ。
 それどころか以前よりも露骨に女におだてられ、男友達や先輩から飲み会といったイベントに引っぱられそうになる始末。
 人気者と言えば聞こえがいいのだろう。だが、実際に奴らが慕っているのは自分ではない。その奥にある親の人脈やコネ、そして資産という名の金だ。分かっていても、たまに警戒を怠りそうになるときがある。笑顔で迎え入れられて悪い気はしない。もしかすると本当に、「自分が特別なのではないかと」勘違いしそうになったとき、必ずズボンのポケットに手を突っ込む。そして中に入れた一枚の硬貨を握って冷静な価値観を思い出すのが習慣化していた。
 普通の基準を忘れてはいけない。自分も奴らも、普通ではないのだ。
 十円玉の女に軽率な発言をして、傷つけてしまった日のことはいまでも鮮明に思い出せる。あんなことは二度としてはいけない。自分を見失いそうになったとき、あの自販機の前に訪れることはいまでも多々あった。
 十円玉の女は、元気にしているだろうか。去年の秋口に図書館の前で、「家の事情で大学受験はできない」と聞いてから会っていない。深刻なことでなければいいが。

 鍵を差し込んで重い車体を動かし、跨がる。エンジンを吹かしたとき、ドライブに出る前にあの自販機の前へ立ち寄ろうと決めた。

 春先の気候は、走っていて気分がいい。独特の緊張感を纏った初々しい姿の人間を見るのも嫌いではない。
 都心を抜ける内に日は傾き、空はしだいに赤く染まっていく。高層ビルに反射する強い光はさらに向かい側の建物の硝子に反射して、複雑な光の軌道を描いた。
 数分後、ようやく辿りついた青い自販機の前でバイクを止める。地面に降り立ち、鞄から財布を取り出して開く。硬貨を指定の場所に入れるとすべてのボタンが赤く光った。こうして飲み物を買うのも久しぶりだ。
 取り出し口にガコンと音を立てて落ちてきたブラックコーヒーを右手で掴む。邪魔になるバイクを自販機の横に寄せ、再び跨がって缶を開けた。飲み終えるまでしばしの休息をしながら、ゆっくりと沈んでいく夕日を横目に見つめる。同時に、静かな住宅街の道へ不意に響いたヒールの音に耳を澄ました。
 だんだんこちらへ近づいてくる音が自分の前を通り抜けたとき、視線を動かさないまま口をつけていたコーヒーから口を離し、すかさず呟いた。

「おい、これからどこに行くつもりだ」

 視界の端に映ったのは、綺麗にセットされた巻き髪と派手な洋服。振り返った女は驚いた顔をしていた。しかしその顔には似合いもしない濃いメイクを施している。あどけない素振りの反面、大人びた身なりをしていることには違和感を覚えた。
 こちらを見つめた女は考える表情を見せたあと、すぐに「あっ」と声を漏らす。自分の存在などすっかり忘れていたという言動は、快いものではなかった。

「どうも、お元気そうで!」
「俺のことはどうでもいい。重要なのは、これからおまえがどこに行くのかだ」

 聞きはしたが、誰が見ても分かる。この女が夜の商売に足を突っ込んでいることなど。
 自然と険しくなった自分の口調に、明らかな苛立ちが含まれているのに気づいて舌打ちを零す。女は少し困った顔で笑ったあと、すぐに満面の笑みに戻った。

「お店です! あなたもどうですか? ママ、かっこいい人が好きだからきっと安くしてくれますよ」

 そういう問題じゃねえだろうが。怒鳴りかけて、なんとか押し殺す。バイクから身体を離して、一気に飲み終えた缶をゴミ箱に放り込む。その流れで女の元に歩みを進め、右手に持っていたものを取り上げて地面に落としたあと、踏みつけた。

「餓鬼が煙草なんか吸ってんじゃねえ」

 思いのほか感情を抑制できず、緊迫した空気が辺りに流れる。しかしすぐにこのままではいけないと思い直し、視線を外してポケットに両手を入れた。

「……先に待ってろって、おまえ言ったよな。俺は合格したぜ。来年はチャレンジするんだろ? まだ始まったばっかだけどよ、けっこういい場所だぞ、大学ってのは」

 夜の仕事についていることの裏にも、家庭の事情があるのは充分に察知している。それでもなぜか引き下がる気になれず、十円玉の女を止めなければいけない気がした。

「私には、もう縁のないところですから」
「なあ、真剣に考えろ。そんな仕事があとどれだけ続くと思う? クビにされて働き口が簡単に見つかるのは二十代までだ。そのあとはどうする? 人生は思ったより長いんだぜ。目先のことだけじゃなく、もっと長期的な目で見て物事を考えろ。辛くてもいま頑張らねえと、おまえの選択肢はどんどん狭まっていく。悲しいが俺たちの住む国は、そういうシステムになってんだよ」

 完全に夕日が沈み、言葉も終わったところで視線を相手に戻す。自販機の光に照らされた女の顔は青白く、無表情を保っている。大きな瞳から一粒の涙がこぼれ落ちていくのを見た瞬間、心臓を締めつけられる思いがした。

 自分は決して、間違ったことは言っていない。すべては相手のことを真剣に思って発言した。自信を持ってそう答えられるが、目の前の女とは見ている世界や価値観・環境が違う。
 言葉をどう解釈するのかは受け取った本人にしか分からないことで、泣かれたということはまた傷つけてしまったのだろう。そう察することしかできなかった。

「……悪い。度が過ぎた」

 とりあえずは相手の気持ちを汲んで謝罪をすると、女は無造作に涙を拭って明るく笑う。

「い、いえ! あなたの言うとおりだと思います。あはは、ごめんなさい。ちょっと最近、色々あって……。そうですよね、私、もっと頑張らないと」

 無理に笑われると余計に苦しくなってしまう。こんなことならばいっそ怒鳴られたほうがましだ。「なにを分かった口を」と、感情的に責め立てられるほうが気が楽になる。だが絶対に、女は自分を責めなかった。
 大人だと思う。いや、もしかすると怒ることもできないほど疲れているのかもしれない。

 自分の感情を出さない相手へ、ゆっくりと手を伸ばして肩に触れた。形だけの笑顔を健気に張り付ける女に、小さく呟く。

「おまえ、本当に大丈夫か?」

 純粋に心配だった。このままではひとりですべてを抱え込み、いつか押しつぶされて消えてしまうのではないかという思いもある。
 こちらが『同情している』と相手に感じさせないために、安易な励ましは避けた。金で解決するなら支援しても構わないが、それで上下関係を生みたくない。十円玉の女とは金が縁で知り合ったのに、金を通した繋がりにだけはなりたくなかった。
 常に平等な立場でいたい。この女が見ている世界は、なぜだかとても健全だと思えてくるのだ。見ていると安心する。感覚が麻痺しそうな自分を、唯一普通の場所に引き止めてくれる象徴的な存在へ切り替わっているのだと、このとき悟った。

「ご心配をどうも。私は大丈夫です。それより、もう行かないと」

 この女が己を惨めだと思う基準がなんなのかは分からない。だが、自分の基準は明確だった。世間一般の感覚から己の価値観が離れていくことだ。
 幼い頃、親を見ていて異常だと確かに感じていた。それが歳を重ねるごとに、抱いていた違和感が薄まっている。いつの間にか自分も『異常だ』と思っていた人間の仲間入りをしているのではないかと思うと、とてつもない危機感を覚えるのだ。
 自分に価値観の基準を教えてくれた存在が遠ざかろうとしたとき、涙で滲んだ相手の目元を反射的に親指でそっとなぞり、呆然とこちらを見上げる女に囁いていた。

「俺も行く」

 このまま離れてはいけないと、直感で察していたのかもしれない。同時に『もっとこの女について知りたい』と感じている自分がいる。
 十円玉を介した他人に近い顔見知りから、一歩踏み込んだ友人になりたいと望んでいるのだ。急激に距離を縮めようとするこちらに、女は困惑を示した。

「え、でも……」
「安くしてくれるんだろ? おまえんところの店は」

 ここで気を遣ってしまえば、他で接点が作れる保証はない。ならば強引にでも割り込むべきだと判断したのだ。

 ゆっくりと女から離れ、バイクのエンジンを切ってから重い車体を動かす。俺が引き下がらないと悟ったのか、女はなんともいえない表情で軽く頭を掻いたあと、まだ熱いマフラーの近くに立って歩き始めようとした。その行動にはすぐに注意して、自分の隣へつかせる。そのときさりげなく本題も聞き出してみた。

「素肌が出た状態で近づくんじゃねえ、火傷するぜ。こっちを歩け。で、職場は近いのか」
「ええ、まあ。ここから歩いて五分くらいのところですから」

 普段からなにかと人間関係で色々と気を揉むことが多いが、この女といるときに限っては、そういった類いのストレスを一切受けない。それは向こうがこちらの素性を知らないことが大きいのだろう。十円玉の女の前でだけは、自分は鷲沢雅人ではなく普通の男としていられた。相手もなんの意識もせずに自分へ接しているのが伝わってくるから安心するのだ。警戒せず気張らなくてもいい人間は、考えてみればコイツくらいしかいないかもしれない。
 それからは無言のまま歩みを進め、女の職場にやってきた。細い小道にひっそりと佇むスナックの看板は少し年代を感じさせる。年期の入った赤い扉を抜けていった背中に続き、バイクを止めたあと自分も入った。

「いらっしゃい」

 扉を抜けた瞬間、強い声で迎えられて顔を上げる。カウンター席しかない空間で、向こう側には体格のいい熟女が立っていた。胸まである髪を右肩で束ね、店の雰囲気と合った洋服を身に纏っている。このような店にくるのは初めてだが、社会勉強の一環としては悪くない。いつも咄嗟に出てくる『教育された対応』を反射的に行っていた。

「どうも。こちらに座っても?」
「ああ、どこでも構わないよ。飲み物は?」
「すみません、実は表にバイクを置いていて。ソフトドリンクとつまみを適当に。飲めないので、食べ物で高くつけていただいても構いません」

 奥の荷物置き場からようやく姿を現した十円玉の女は、素知らぬ顔でグラスを手に取り、拭き始めている。顔は向けず視線だけで横画を映していると、カウンターを挟んだ前方に立つ女主人が口角を上げた。

「若いわりによくできた子だね。抜け目がなさすぎて気持ち悪いよ」


 夜の商売をしている人間の言動は容赦ない。会社員と違い、完全に自分を殺してまで相手に媚びへつらう必要がないからだろう。特に自分のような見るからに若い学生など、子どもと同じだ。なにを言っても許される部類に入っていてもおかしくない。
 出された烏龍茶を飲みながら、そのまま女主人と適当な雑談をする。
 昔は美人だったのだろうと思わせる顔つきだ。そこに生きてきた年数を刻んだ皺やたるみが年相応に出ている。無理に若作りをしようとしている気配はなく、見ていて不自然には映らない。落ちついた口調も人生経験の豊富さを窺わせ、本当に見習うべき部分が多々あった。
 新しい客が入ってくる気配はまだなく、店内にはBGMがやけに響いている。曲を歌うことを勧められたが、音楽はあまり知らないと断りを入れた。それから更にしばらく経ったとき、不意に女主人が十円玉の女に声をかけた。

「由美ちゃん、悪いけど煙草を買ってきてもらえるかい?」
「えっ、ああ、はい。分かりました」

 由美。そこで初めて、十円玉の女について個人的な情報を得た。掃除といった雑用をこなしていた本人は素直に応じたが、少し不安の色を瞳に浮かべている。それを見透かしたように、女主人は煙草の紫煙を吐き出して口角を上げた。

「安心しな。この坊やに変なことは喋らないよ。由美ちゃんは、うちの大切な女の子だからね」

 その台詞を全面的に信用はしていないのだろう。女は苦笑して「よろしくお願いします」と小声で囁いたあと、大人しく店を後にした。無言で烏龍茶の入ったグラスを置いた瞬間、前方から鋭い声音が突き刺さる。

「由美ちゃんが気になってるんなら諦めることだね。アンタとは住む世界の違う子だ。苦労するよ、お互いに」

 唐突な発言に対して、不愉快さは覚えなかった。自分でも薄々そのことに気づいていたからかもしれない。しかし黙って言いくるめられるのは癪である。こちらも厳しい対応で場を繋いだ。

「俺の苦労はどうだっていい。幸いなことに、どうとでも人生をやり直せる環境にいるからな。問題はあの女だ。いまの大切な時間をこんな場所で過ごさせてどうする? 勉強させて大学に入らせるべきだ。いまならまだ、まともな人生を送れる可能性がある」


 世の中にはいつでもチャンスが転がっている訳ではない。努力して環境が手に入れられるのは若いうちだけだ。歳を取ると、どれだけ努力しても手に入らないもののほうが多くなる。職もその内のひとつ。
 チャレンジするには年齢など関係ないというが、仕事において『歳』というのは最強の武器になる。日本でまともな生活を手に入れるには、いまのタイミングで大学に入って就活をするしかない。
 それがすべてということではないが、無難とされる生きかたなのは周知の事実だ。
 リスクのある方法も悪くはないが、やり直しの利かない環境にいるならば常になにかしらの失敗対策を講じているべきだ。「こちらはやってみたが無理だった、ではこちらへ戻ろう」という逃げ場がなければその後の立て直しが大変になる。
 自分の身を守れない賭けや、なんの安定も生まない職を計画もなくずるずると続けるなど、己の首を絞めるだけの無謀な行動である。
 至極全うで、世間の意見を反映させた意見を言ったつもりだった。だがカウンター越しにいる女は深く煙草の煙を吸い込んだあと、肺に満たしたぶんだけ大きく息を吐き出し呟いた。

「ちっさい世界しか知らないんだねえ、アンタは。ま、そういう顔はしてるけどさ。人生で泥を被るような苦労をしたことがないっていう、小綺麗なお坊ちゃんって訳だ」

 反論できないこともないが、しなかった。確かに自分の『苦労』など、世間で見れば甘いものかもしれない可能性が高いからだ。相手にそこを突っ込まれれば、黙り込むしかない。それならば最初から黙っているほうが無難にやりすごせる気がした。
 案の定、これ以上こちらに深入りできない相手は自分を話題から外して淡々と言葉を続けていく。しかしそれは棘を含んでいた。

「アタシはこの道に入ってもう40年以上になる。アンタから見れば『まとも』じゃないかもしれないが、アタシは案外ちゃんと『まとも』に暮らしているつもりだよ。むしろ、普通ってなんなんだろうねえ、教えてくれないか、坊や」

 知っている。自分の中に根付いているルールは見えない社会を通して作られた単なる仕組みで、実態や信用性などないことも。人はそれぞれ個人に合わせたライフスタイルがあり、それに正社員や契約社員、派遣社員・アルバイトといった名前がついているだけだということも。

 世間の目などまやかしだ。人は常に他人を見下していなければ満足のできない生き物だから、他の弱い立場にいる人間をあざ笑う。
 自分はそんなことを絶対にしないし、平等に人を観察できていると信じていた。だが、無意識に見下していたのだ。それは覆しようのない事実として胸に突き刺さった。

「確かに不安定で先も見えない世界だが、案外自由だよ、ここは。アンタみたいな環境にいる子には、一生体験できない世界なのかもしれないが」

 人生経験の差を元に揺すぶられている。そう感じたとき、心の弛みを引き締めて前を向く。だが、いままでされたことがないような想定外の言葉ばかりかけられ、緊張が薄れない。
 顔に紫煙を吹きかけられて眉根を深く寄せる。不愉快さを露にすると、前方の女主人は悪戯な笑みを浮かべた。

「アンタは、あの子をどうしたいんだい? 年頃の坊やが女に言い寄る理由は、基本的にひとつしかない。アンタも最初はあの子に惚れてるのかと思ったが、どうやらそれは違うようだ。そのくせやたらと執着はしているみたいだったから、変な男だと思ってね」

 会話の脈略がまったくない。恐らくこの女は、自分が言いたい事をなにも考えず口にしている。まとめや要点・起承転結といった相手に分かりやすく伝えるプレゼンテーションの要素はまったく皆無だ。だから結局はなにを言いたいのかこちらに伝わってこないまま、時間だけが過ぎていく。それに苛立ちを覚えていると、さらに笑われた。

「人がイライラする理由を教えてあげようか。色々あると思われがちだが、実際にはふたつしかない。ひとつは思想の違いを感じたとき。そしてもうひとつが、流れる時間軸の早さが互いに違って、噛み合ないときだ」

 いっこうに進まない話しを少しでも動かそうと、皮肉を交えて強引に持っていく。

「面白い持論だな。あなたの言葉を借りると、俺たちは思想も流れる時間軸の早さもまったく違うみたいだ。本題に入れ」
「そんなに若いのに、結論を急ぐなんて愚かだねえ。いや、若いからこそ急ぐのか」

 それすらも煙に巻かれてしまうのは、とても気分が悪かった。なにを言っても無駄ではないかと諦めすら混ざり始めたとき、また女主人は新たな話題を振ってくる。

「ひとりで生きていく怖さを知ってるかい? 知らないだろうねえアンタは」
「なにが言いたい」

 もううんざりだといった表情を隠さずに聞き返すと、今度はようやくまともな会話が成立した。

「ひとりぼっちの怖いところはね、自分の未来について考えるのが億劫になるところだ。守る人間がいれば明確な目標や意志を持てるのに、なにもないと目の前の生活をただ維持するだけで満足してしまう。それ以上頑張る気がそもそも起きないのさ」
「そんなモンはただの甘えだろうが。本当に追い込まれてから動き出しても手遅れになるだけだ」
「いまのあの子にそんなことを言ってもなにも響かないよ」

 煙の匂いが染みついた室内の中カウンターの向こうにある棚には、何種類もの酒が並べられている。ライトに照らされて反射するガラス瓶の色はやけに鮮やかで目についた。反対に、前方から響く声は濁っていて低い。

「アタシだって何度かアンタみたいに説得したさ。だけどもう頑張る気力がないんだろう。本人が乗り気でない以上、無理強いはできない。はっきり言って誰がなんと言おうと無駄だ。諦めな」

 初めて少しだけ、自分の知りたい事柄に触れられた。このタイミングを逃す訳にはいかない。語気を強めて慎重に踏み込むと、真剣な声が返された。

「ここで諦めてどうなる。自分の時間が無駄になるくらいならいい。問題は、ここで俺たちが諦めればアイツの人生が棒に振られることだ」
「アンタにとってあの子はどういう存在だ。どうしてここまで係わろうとするんだい。惚れている訳じゃなければ放っておけばいいだろう、どうせ他人なんだ」

 それには一瞬怯んだが、心に浮かんだ言葉ですぐに返した。

「駄目だ、放ってはおけない。アイツにはまっとうに生きてもらわなくちゃ困る。俺の道しるべだ」

 そう、あの女は自分の素朴な心を映す鏡だった。なにが正しいのか分からなくて迷ったとき、悩んだとき、苦しんだとき、判断する基準は『十円玉の女ならどう思うか』。これがすべてになっていた。意識した訳ではなく、気づけばそうなっていたのだ。
 自分勝手なのは承知だが、あの女にはこれからも俺の道しるべであり続けてもらいたい。アイツの素朴で真っ直ぐな性格を保つことが、自分の価値観を正しく保つことにも繋がってくるのだから。だから不幸にはなって欲しくない。できれば幸せになって欲しいとすら思う。

 自分の中ではまともで筋の通った理屈でも、相手にはそう映らなかったようだ。怪訝な表情をされる。しかし真剣な思いは伝わったのだろう。最後には苦笑された。

「やっぱり変な子だねえ、アンタは」

 不意に灰皿に短くなった煙草を押し付けた女主人は、最後に大きく紫煙を吐き出して短く問う。

「見返りは?」

 それが「言わない」と放っていた女の事情を話した先にある件であることは端的に掴み取った。視線が合った瞬間、口角を上げて強気で答える。

「いますぐに成果が出せる訳じゃねえ。出世払いでどうだ。俺に投資しておけば損はないぜ」

 親の権力や即物的な金でなく、自分自身の可能性を楯にして駆け引きを持ちかけたのは初めてだ。だが、これでいいのだと思う。自分が聞いた責任を取る。その覚悟はできているのだから。
 こちらの心情を汲み取ったかのかは分からないが、女主人はとうとうゆっくり語り始めた。

「いいだろう。一度しか言わないからよく聞きな。……由美ちゃんは、本当に親孝行な子でね。あの子にとって自分の人生は、母親との関係や生活がすべてだった。逆にそれがいま、重い足かせになって動けずにいる。母親が死んでから、あの子は生きる理由を失った。心の傷や喪失感はそう簡単に癒えるものじゃない。」



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